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その 1 | 2019.05.31計算とは、読み解くことでもある『銀河ヒッチハイク・ガイド』ダグラス・アダムス (安原和見 訳)、河出文庫 (2005)
鉛筆を手にとって、数字を書く。
ぷらす、の記号を書く。また数字を書く。
等号は、答えへと近づくための意思表示。
計算は、能動的なものだと思う。答えを求めて、手を動かす。
まず、目的がある。何か計算したいもの、求めたいものがある。そして、答えを得るための道筋を見定めつつ、一歩を踏み出し、前に進む。
問いがあって、その答えを求めるということ。この姿勢はきっと、人類の歴史の最初の頃から変わらないのだろう、とも思う。きっと、答えがすぐにわからない時には、不可視なものの力を借りていたのだろう。問いに対する答えを、ときには亀の甲羅に入ったひびのなかに、ときには引いたタロットカードのなかに、ときには天空の星の瞬きのなかに読み取って、安心を求めたのだろう。
でも、それではあまりうまくいかないときが多かったのかもしれない。
当たるも八卦、当たらぬも八卦。
もしかしたらだけれど、問いに対するそれなりの答えを得るために、不可視なものの力を借りるのではなくて、自分たちでどうにかできる技術(すべ)を作り出してきたのかもしれない。
まずは論理。あとは、計算。
現代。自分の手を動かす代わりに、計算機が働く時代。
それでも数値を手で入力したりもする。もちろんコードも書く。
画像だって、数値。音声だって、数値。すべてを数値に変える。何もかもを。デジタルな時代だからすべてを数値へ、と夢見る人のなんと多いこと……。
そうして得た数値を、書いたコードが、あらかじめ決められた手順で変換していく。
紙に手で書き記しているときとは違って、等号は目には見えないけれど、答えにたどり着くために計算機のなかでつながっている。これが答えです、と求められた形にまで、けなげに、素直に作業が進む。デジタルな景色のなかで、黙々と。
人による《計算》ではなくて、計算機による《計算》。そこには高速化への夢だとか、網羅性への憧れだとか、そういったものが詰まっている。
目に見えないものを引っ張り出してもらえるのではないだろうか、という願望。
一方で、計算の結果として目の前に提示されたもの、そしてそこに至る過程を理解できないのではないだろうか、という怖れ。
一冊の本が頭に思い浮かぶ。
ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』。
まったくもって静かな雰囲気の作品ではないし、そこに展開されるのは無意味に近い喜劇。それでも、計算機による《計算》というテーマにふさわしい一冊だと思う。
なにせこの小説のなかでは、自称、この宇宙の時空で二番めにすぐれたコンピュータであるディープ・ソートが、七百五十万年をかけて、ひとつの目的のために《計算》をするのだから。
ディープ・ソートに回答するように課せられた問いは、生命、宇宙、その他もろもろについての深遠なる疑問の答えを、というもの。
この問いに対してディープ・ソートはすごい長い時間をかけて演算をし、答えを導き出す。その答えとは……(ぜひ、ご一読を)。
なお、このディープ・ソートのくだりは作品の主題(てーま)というわけではない。そもそも話の最後のほうにならないとディープ・ソートは出てこない。そして出てきても一瞬だけ。覚悟して読まれたし、とは大学時代の先輩の言葉。ただし、疾走感溢れる作品ですぐに読み終わってしまった。日本と英国の文化的違い、すなわちジョークの隔たりをときどき感じたけれども。
ディープ・ソートに出した答えをどう解釈するのかは、登場人物に、そして読者に任されている。きちんと納得のいく解釈をしないでも、答えを《利用》できれば十分、という立場もある。
最近の人工知能への期待感は大きい。《利用》すれば、すごいことができそう、という声。
一方で、人工知能のなかでどんな計算がおこなわれているのかわからないのが怖い、と言われることもある。ブラックボックス。とりあえず結果を出せばそれでいい。実際に中身をわからないままに使われている場合も多い。
計算は、能動的。目的があって、そこに向かって計算をする。
でも、その方法は、問われない。
計算をするということは、計算をし始める前にはわからなかった何かが、計算の結果として得られるということ。その差こそが価値であって、いかにして他の人よりも早く、他の人が見つけづらいような差を生み出すことができるかがビジネスの世界では求められている。
《結果だけを求めるのでは駄目ですよ、途中の考え方が大切です》
小学校の数学の授業以来、そういったことを教わってきたはずなのに、でも、とりあえず答えが欲しい、と口にしてしまっている自分がいる。
知的な堕落。
内側がどうなっているのかをわかることの大切さ。一方で、その精神的な大切さが、どのくらいの価値を持つのだろうか、と社会から問われた際の葛藤。
そもそも目的を、価値を決める私たちの考え方が問われている社会。
粘菌を使った計算、というものが研究されている。粘菌は食べるものを探して、その柔軟な脚を思い切り伸ばし、ときどき忌避すべきものから身を捩り、自分の領土を拡大していく。
拡散。そして、収斂。
その性質を使って、東京近郊の交通網の最適化問題を解かせてみる、といった研究がある。
探索。そして、利用。
たった今、《粘菌を使った計算》と書いた。
でも、粘菌は計算をしているのだろうか。
実際に効率の良い交通網を導き出してしまう粘菌を見て、粘菌は賢い、意識を持っている、だから計算をしているのだ、とはすぐには主張しづらい。粘菌は計算をしているわけではないはずだ。単に、生きている、生きようとしているに過ぎない。そう考えるべきだろう。
でも、そこに計算を読み解くことができてしまう。結果を利用することができてしまう。
能動的に働きかけることによって、計算を読み解く。利用する。
土や岩の表面に引っかき傷をつけて数を数える。それも立派な計算の一種。でもそれは、何も読み解こうと思わなければ引っかき傷という物理的な現象にすぎないのかもしれない。熊の爪が当たっただけかもしれない。飛んでいる烏の嘴がかすっただけかもしれない。
でも線が何本かあれば、そこに数を数えた痕跡を読み取ってしまう。勘違いかもしれないけれど、計算の意志を感じ取ってしまう。
計算とは、能動的なものだから。読み取るものだから。
働きかけなければ計算ではないし、働きかければいろいろなものを計算として使えるようになる気がしてくる。
計算かどうかは、つまり、見る側の問題で、問われているのは自分たち自身なのだろう。
目の前のできごとに何も見いだせず、ただただ見過ごすことは、見る、読む、という行為をしようと準備していなかったから起こる。
幸運は用意された心のみに宿る、とはフランスの細菌学者のルイ・パスツールの言葉。読み解くための準備をしておくことが大切。そして、実際に読み解こうとすることも、大切。読み取れるかどうか、何を読み取るのか、読み取ったものに意味があるのかは、運を天に任せるのみ、である。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』のディープ・ソートが導き出した答えも、読み解こうとしない限りは意味のないものだろう。
読み解こうとする意志の、大切さ。
もちろん、読み解こうと努力をしても、意味のない答えも世の中にはあるけれども……。都合の良い解釈を引っ張り出すために読み解く間違いを犯す場合もあるけれども……。
量子計算機。
量子力学という、とっても小さな、原子とか分子とか、目には見えないような領域を支配する物理法則にもとづく《計算》。
DNA計算機。
対をなすデオキシリボ核酸の螺旋構造を使った、分子の多量性を利用した並列計算の枠組みにもとづく《計算》。
世の中にはいろいろな《計算機》が生まれつつある。
そして私の研究も、新しい《計算》を目指す山麓に立ったところ。
細胞のなかで生じるような化学反応で、株価や為替の変動を読み解くこと。もしくは、化学反応を利用して、ロボットの制御をすること。
もちろん言いすぎている部分はあるけれど、いつか、そんな未来が来るかもしれない。そのための基礎理論、具体的には双対過程と呼ばれる数理的な性質についての研究を実施している。
粘菌を使った計算のように、結果をわかりやすく見て取れるわけでもないし、ディープ・ソートのような賢い計算機とやりとりするわけでもない。ただ、目の前にある、化学反応、物質の生成と消滅、《生まれる》と《消える》という現象を数理的な眼鏡で眺めることで、そこにある種の《計算》を読み取ることができる。
今はまだ、その原理が少しずつ見えてきた段階で、顔を上げただけでも、間近に高い壁。その向こう側にも山。谷。すでにいろいろなものが待ちかまえているのがわかっている。
でも、壁に遮られてまだ見えない地平を睨みつけて、なんとか《計算》を引っ張り出すための方法を作ろうとしている。
能動的な、眼鏡。新しい《計算》のための、眼鏡。そのための、数理。
目の前の現象から意味のある《計算》を引っ張り出そうという意思を心に抱いて、こつこつと、着実に。残念ながら、愚直に歩みを進めるしか術を知らないから。もう少し賢い方法を教えてくれる計算機を作れればよかったのかもしれない。でも、辛いけれども、やはり楽しく感じられるこういった作業くらいは、人間が担う時代であって欲しいと願う。
それに、ディープ・ソートに解き方を尋ねても、答えが出るのは七百五十万年後かもしれないから。