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その 2 | 2019.06.30見たいようにしか、見ることができない『十角館の殺人』綾辻行人、講談社文庫 (1991)
『そして誰もいなくなった』アガサ・クリスティー (青木久惠 訳)、ハヤカワ文庫 (2010)
世の中はとても複雑で、どのように捉えるべきか、と訊かれたときに、すぐに答えることはなかなか難しい。もちろん「難しい」というのは世の中が複雑すぎるから、という理由だけではなくて、捉え方がそもそも一通りではないから、という理由のほうが大きい。「真実はいつも一つ」という探偵の台詞に出てくる《真実》とは《事実》のことであって、真実は人の数だけ存在するのだろうな、と思ったりもする。
科学者や理系の大学教員が探偵役の小説やドラマで、「先生は世の中を数式で捉えているんですか?」という質問が出てくることがある。世の中の全てを数式で捉える人が本当にいるかどうかはさておき、数式で表現できるくらいの本質的な部分だけを取り出して思考する、という人はたしかにいるだろうと思う。
経済学では合理的な登場人物を考える。
ホモ・エコノミクス。
東にお米の需要があれば、お米を運んで供給してやり、日照りのときは少しくらい高くてもお米を買い、寒さの夏はおろおろ歩くくらいならば先んじて投資をし……。合理的に動くからこそ、神の見えざる手はうまく働いてくれる。
現実を数式で捉えるべきか。
感情を無視した理屈や合理性で捉えるべきか。
もちろんほかにも色々な捉え方があるし、そういった捉え方は生れながらにして身についているわけではなくて、色々な経験や学びのなかで身についてくるものでもある。
数式が好きな人。経済学が好きな人。もちろん、文学が好きな人。
色々な世の中の見方、捉え方がある。世の中を眺める眼鏡がある。だから世の中をどう捉えるべきか、という問いかけに対してはたくさんの答えかたがあって、それこそが人間らしいのだと思う。この人とは会話が通じないな、と感じるときには、実は自分とは別の眼鏡をかけているのだと意識すると、違いがストンと腑に落ちる場合もある。
たとえば、満点の星空の下。稜線に落ちる夕陽を眺める山の頂。鬱蒼として神々しい橅の森林の中。そういった自然の壮大さや美しさに圧倒される場面で、頭が混乱して、言葉にならずに、感情が溢れて、というときがある。自然を感じられるのは生物が産まれながらにしてもっている体の感覚という「眼鏡」をもっているからであるし、一方で言葉にできないのは人間としての思考をまとめあげる眼鏡をまだ持っていなかったからだろう。きれいだったね、の一言で済む人はかなりざっくりとした眼鏡を持っているのだろうし、過去に読んだ文学作品を引用して感動を表現しようとする人は人の歴史の上になりたつ眼鏡を持っているのだろう。キーマカレーの挽肉の夜空、トマトスパゲティ的夕焼け、などと口にする人は《美味しい》眼鏡を持っているのかもしれない。……その比喩を評価する眼鏡はどうやら自分にはないけれども。
圧倒的な自然はもちろんのこと、実は日常生活にも小さな奇跡と美しさは溢れているはずで、でも日々の慌ただしい生活のなかで常にそういう感動を感じて生きるのはなかなか難しいし、いちいち感動していたら身動きできなくなってしまいそうでもある。だから単純化、簡単化する眼鏡をかけてしまって、ある意味、日常を生きやすくしているのかもしれない、と感じるときがある。
世の中を眺める眼鏡は、ある種の形式であって、とても複雑な世界に圧倒されて生きるのが大変になってしまうことを防ぎ、日常を過ごしやすくしてくれるためのもの。
だからこそ、自分が慣れきってしまっていて、些細だと感じるものごとを、すごいね、と言って目をキラキラとさせる人を見ると、少し毎日の自分を反省する。
形式は、ときに安心感に通じる。それは大切なことでもある。
たとえば、アガサ・クリスティのような本格推理小説にならい、二十世紀の終わり頃に日本でさかんになった新本格推理小説の旗手の一人、綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』は、それこそクリスティの『そして誰もいなくなった』の形式へのオマージュで成立している。そもそも本格ミステリにはある種の形式があって、だからこそ読者は安心して作品を読み進めることができる。
ここで『十角館の殺人』の話の筋を紹介したいところだけれど、読んだときの面白さが半減してしまうだろうからそれを避けて、ここでは一般的な本格推理小説に話をとどめることにする。
さて。
推理小説ではどこかで事件が起こり、探偵がそれを解決する。解決する前には色々な間違った推理もおこなわれる。話の進行とともにすべての手がかりが読者にも提示され、推理可能な状況になる。そして最後は探偵がトリックを暴き出してくれる。
こういった形式を前提として作品を読み進めるし、その形式が崩れされたときには「あれ、これはフェアじゃないのでは?」と推理小説愛好者は憤ったりもする。もしくは、にやり、とする。
クリスティは大量の作品を書いているから、彼女によって生み出された様々な発想はどれも有名過ぎるし、手を替え品を替え、で少しずつ、いろいろな作品に入り込んでいたりする。だから推理小説を読んだ人から「このアイデア、他の作品で読んだことある!」という文句を聞くこともある。もちろん、読んだことがあるなあ、というつまらさなにつながるわけではなく、これはあの作品をベースとしていて、それを少し別の形で料理してんだな、などの読む面白さにもつながる。それは上述した綾辻行人の作品もそうだし、有栖川有栖におけるエラリィ・クイーンの位置付けにも言える。読者への挑戦状、という形式を見ると、思わずにやりとしてしまうのは、推理小説愛好者冥利に尽きる、のかもしれない。
形式は、偉大だ。
科学の世界でも、そういった世の中の見方、眼鏡に関する議論はおこなわれている。生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルの提案した環世界という概念は、生き物はそれぞれの体の特徴に応じた形で世の中を見ている、というところから出発する。
人間の視覚は色々な光を見ることができるけれど、ダニの見る世界は《熱》を基準にしている。熱をおびたものは生物だろうから、血を吸うことができるはずだ。だから熱を感じたら木から飛び降りる。
ダニは人間と同じような形で世の中を見ることはできない。明るさがわかるダニもいるようだけれど、可視光線、数百nm程度の波長を《見る》ための形式がそもそも体に備わっていない。でも、そこには《熱》を見る、という形式がある。その形式の枠組みの中で、ダニは生きている。
生物学的な体が作り出す物理的な制約から、《熱》を見る、という以上のことはできない。けれど、それがダニの生きる世界であって、世の中を見るための眼鏡である。もちろん、そうやって世の中を見ている、ということであって、良し悪しの問題ではない。その中でどうやって生きるのか、ということが大切なのだろう。形式の枠組みを最大限に利用して生きているのか、それとも漫然と生きているのかは、ダニに訊くか、ダニ本人になってみないとわからないけれども。
人間には五感がある。けれど、その限界を超すものは感じ取ることができない。人間の目は紫外線や赤外線、《熱》を感じ取るようにはできていない。
人間には科学がある?
赤外線を感じ取れる装置を作れる?
それはその通り。一方で、その『装置』だって、その装置なりの形式を持っていて、その枠組みの中だけで世界を見る。赤外線を観測できる装置は赤外線を見る、という形式を持っている。赤外線を見るための眼鏡を持っている、と言ってもいいのかもしれない。だからこそ、赤外線以外のものには対応できない、赤外線という枠組みのための、眼鏡。
物理学も、そういった枠組みのなかで、形式の中で、制限された眼鏡で世の中を見ている。
ニュートン方程式で記述される古典物理学の世界からは、電子や原子などの小さい世界を眺めることはできない。古典物理学は、あくまでも普通に我々人間が目にする世界を記述するための眼鏡。
一方で、球投げなどの範囲であれば、古典物理学という眼鏡を持っていれば十分だし、余計なことを考えなくて済む。相手に届かせるためにはどうやって球を投げるべきかを考えるときに、球を構成している原子の動きに想いを馳せる必要はないし、そんなことを考えてぼーっとしていたら、球投げの相手から怒られてしまう。
何ごとにも、適切な眼鏡をかけるのが、いい。
人間は、見たいものしか見えない。見るために準備をしたものしか、見ることができない。眼鏡。思考の型。色々な言い方ができるかもしれない。
ただし、見たいものしか、見ることができない。
見たいものを見るためには、相応の準備が必要ということ。それだけのこと。
データサイエンス。機械学習。人工知能。
最近話題のこれらも、実はなんでも可能、ということではなく、形式や型、準備が必要となる。
生物の脳を模した、人工神経回路。その最初のものが発表されたのは1960年前後で、機械が生物のように学習できる、と話題になったものの、その形式では《直線的》にしか世の中を見ることができないことがわかり、冬の時代を迎えた。
もし世界が《直線》だったら、これで十分だし、もし世界のすべてを《直線》だと捉えてしまう意気込みと覚悟があれば、これでも十分だったのかもしれない。ダニが《熱》で世界を捉え、それでどうにか生きているように。
冬の時代を迎えてしまったのは、現実の世の中、複雑なものを見ようとするため、さらに言ってしまえば、利用しようとするためには、もっと複雑な形式が必要だった。
もちろん、とても複雑なものを初めから準備しておけばいいのかもしれない。そして、実際に徐々に複雑なものを学ぶことができるようになってきた。特定の状況下では人間の能力を超すような技術が、すでにたくさん作られている。
でも、複雑なものに対応できるように、とにかく柔軟にしておけばいいか、と言われると、それでは困る場合もあるから、なかなかうまくいかないものだ。
人工知能で解決すべきとされる問題ひとつに、フレーム問題がある。
お盆がある。コップが載っている。運ぶだけなのだけれど、運ぼうとした時に急にドアが開くかもしれない。足元に段差があるかもしれない。色々とチェックしないと、と思考しているうちに、身動きが取れなくなる。
世の中、可能性が多すぎる。
心理学の実験で、たくさんの種類の商品を並べておくと、人が寄って来るけれども実際に買う人は少なく、逆に少しの種類の商品だけのほうがよく売れるらしい。
多すぎると迷ってしまう。選択肢の過多。
見知らぬ土地で、人混みの中で、頭の中がパニックになってしまうことがあるのは、これまでの日常と予想と違う可能性を考えすぎるから、ということもあるのではなかろうか。つまりは、フレーム問題と同じ。しっかりと様々な可能性を考える、思考する場面だからこそ、身動きを取れなくなってしまう。
選択肢、可能性の型。
だからこそ、逆に思考を単純化して、型にはめる、ということのほうが生きやすいかもしれない。思考を言葉に落とし込む、というのも、ある種の形式、型に当てはめることかもしれない。
平凡な、淡々とした日常のほうが生きやすい、という場合もある。形式のなかで安心して生きられるから。
もちろん、変化が求められる時代だから、そのための適度な、つまり可能性に竦むことがない程度な形式を身につけられるといいのかもしれない。
かもしれない、を連呼することで可能性を広げることの良し悪しはさておき、話を戻すと、形式というのは大切だ、というのは納得してもらえるのではないかと思う。もちろん、広すぎても、狭すぎても駄目で、その加減が大切であって、その加減がどのくらいか、については書くことが難しいのだけれども。
人間は脳という形式、物理的な装置を超して思考することはできない。一方で、補助的な道具、装置を作って生きてきた。
未来の、人工知能は形式は、どんなものだろう。