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その 3 | 2019.07.31境目から浮かび上がってくるもの『虚実妖怪百物語 序・破・急』京極夏彦、角川文庫 (2018)
『異界と日本人』小松和彦、角川文庫 (2015)
『陰陽師』夢枕獏、文春文庫 (1991)
『ゲド戦記 I 影との戦い』アーシュラ・ル・グィン (清水真砂子 訳)、岩波書店(ソフトカバー版) (2006)
夏といえば、怪談。
怪談といえば、夏。
実態のない二つの概念の、どちらがどちらの名前を支えているのだろうか。
この世のあの世の境目から生まれ出ずるもの。妖怪。
この世に未練を残し、止まりしもの。幽霊。
この世と異界とのちょうど境目が、怖い。
京極夏彦の、ありえないくらいの長編『虚実妖怪百物語』を読んだ。いや、本当にありえないくらい長い、著者最高の1900枚の超大作で、『序・破・急』の三分冊。
しかし、一気に読めてしまった。
妖怪そのものが現実と非現実の境目の話なのに、実在の人物と同名で、性格もほぼそのままだろう、という感じの登場人物が多数登場するこの作品は、まさに「うそ」と「まこと」の狭間に位置している。妖怪が目に見えるようになったらどうだろうか、という虚構話を描くだけではなく、なぜ突然妖怪が見えるようになったのか、という理屈まで突き詰めて考えるところが、さすが京極夏彦、である。SF的要素もあり、さらに全編が良い意味での馬鹿馬鹿しい感じで進み、『急』の途中では、通勤の車中で、可笑しくなって吹き出してしまった。
車中で吹き出すというのはなかなか恥ずかしい経験なのだな、と身をもって知る夏、である。
他人に本を勧めるのは難しい。人それぞれに趣味が違うのが当然だから、読んだ結果、つまらない、という感想をもらうことは仕方のないことだろうけれど、自分の趣味をわかって欲しいな、と小さな期待くらいは持ってしまう。
その点、この作品は自信を持ってお勧めできる。
なにせ、そもそも1900枚の大作に挑もうと考える人も少ないだろう。実際に書店で手に取ろうとすると、少し気がひけるはず。だから、これを読もうとするのはかなりの京極夏彦好事家だろうし、途中で投げ出さずに読み終えてしまうような活字好きなら、文句を言わないはず。面白いのは確かだから。
話は変わって、妖怪の話である。
妖怪の専門家ではないので、間違いがあればご容赦願いたい。
そもそも自然というのは人間の理解を超している部分が多い。得体の知れないものに出会う。例えば海で、水面が突然盛り上がって巨大な黒い影が出現したり、ぬぼーっとありえないくらいに大きな人影が揺らめきながら遠くに現れたり、船の下を巨大な黒い何かが揺らめきながら通り過ぎて行ったり。
それらは鯨だったり、蜃気楼だったり、魚群だったりするのだろう。けれど、鯨と衝突して船が沈んだり、嵐を伴った天候変化の予兆だったりすると、不吉なもの、気をつけるべきものとして恐れを感じる。
得体の知れないものは、具体的な形が見えないから、怖い。それに名前をつけることで、怖さを名前に封じ込めることができる。
あれは海入道というものでね、と名付けてしまえば、恐怖の対象ではあっても、少なくとも得体の知れないものではなくなる。妖怪であれば、その姿も想像できるし、叩けば逃げていくらしい、煙草の火に弱いらしい、といった怪しげな妖怪退治の方法を耳にしては、それなら大丈夫、と少し安心できる。実際には根拠のない噂話だし、強がってみているだけではあるけれど。
自然現象。物珍しい動物。
人間が予想できない、制御できない物や現象に、名前をつけて安心する。
妖怪の中にはそういったものもある、らしい。
なお、自然に対する理解が少しずつ進んだからか、江戸時代に流行った百鬼夜行では、自然というよりは古道具などが妖怪として扱われることが多くなったとのこと。いわゆる「付喪神」である。
さらに、妖怪の影が薄くなり、お岩さんのようないわゆる幽霊が恐怖の対象になるように変わっていった。立場の弱い子供や女性が幽霊となったのは、ようやく社会的弱者に目が向くようになったからかもしれないし、江戸の平和な時代になって、人間関係が複雑になり、不思議なものがなくなったうえに、本当に怖いのは人間、ということになったのかもしれない。さらには近代になり、『個人』という考え方が定着してくると、固有名詞を持った『幽霊』が増えてくる、という流れもあり……。
小松和彦の『異界と日本人』の、妖怪から幽霊への変遷についての説明は、なるほど、と思わされた。なお、中世には酒呑童子などの鬼や怨霊などの政治的な妖怪、幽霊が多くみられたが、これは貴族や武士などの上流階級が残した文化だから、らしい。
庶民へと文化の中心が移るにつれて、妖怪や幽霊の姿も変わっていく。
怪異は、人がいるからこそのもの。
京極夏彦しかり、小松和彦しかりで、妖怪や幽霊を説明するその過程も面白い。
一方で、もちろん理屈はさておき、単に恐怖を味わうというのも、夏の夜には、いい。
妖怪や幽霊というのは、この世ではないもの、つまりあの世を描いている……というわけではないだろう。あの世や異界と、この世との境目、境界に生じるものが、妖怪であり幽霊なのだと思う。あの世のものは、この世からは見ることができないだろうから。
そして、その境目に現れる得体の知れないものに、どう対処するか。
名前をつける、のである。
名前、というのは非常に大切なもの、なのである。
夢枕獏の『陰陽師』の安倍晴明だって、異形のものに偽名を教えた。さらに、偽の名を呼ばれても答えない。そして難を逃れる。
偽りの名前でも、呼ばれて答えれば呪がかかってしまう。本当の名前なら、なおさらのこと。
アーシュラ・ル・グィンの『ゲド戦記』でも、真の名を教えてはいけないと強く教えられる。逆に言えば、植物や動物、自然の真の名を知ることが魔法を使う上で欠かせない。
話が横道に逸れるけれど、『ゲド戦記』の真の名の扱いには、科学者が一つのことをひたすら探求する姿勢に通じるものがあって、初めて読んだ時に、すごいなあ、とわくわくしたことを覚えている。たった一つの小さな植物の真の名を明らかにするために一生を捧げる魔法使いもいる。なんて素敵な世界だろうか、と思った。それが許される世界でもあるし、それに人生を捧げたいと思う人もいて、それを素晴らしい成果だと認めてくれる人もいるのだから。
閑話休題。
プログラミングの世界で有名な言葉のひとつ。
「名前、重要」
ここでの名前とは、プログラムで利用する変数や関数の名前、のことである。
変数というのは、数値や文字列などのデータを入れておくための箱のようなもの。どんなものが入っているのか、例えば日付なのか、温度なのか、などが想像しやすいような名前をつけるべき、というのが「名前、重要」ということである。
西暦の数字が入っている箱に「温度」と書かれていたら、何が何だかわからない。箱を開けてみて「2019」が入っていたら、2000度を超しているのかしら、などと勘違いしてしまうかもしれない。
関数というのは、何かしらの変換や処理をする道具のようなもの。いくつかの数字の足し算結果を返してくれるような道具があるのに、その道具に「割り算」という名前をつける人はいないだろう。
プログラムは他人も読むものだから、使われている変数や関数、箱や道具にわかりやすい名前をつけておく必要がある。そのために、こんな感じで名前をつけましょう、というおすすめの名付け方法、すなわち命名規則もある。Pythonと呼ばれる言語には「PEP8」というコーディング規約があり、そのなかに命名規則についても明記されている。
科学における名前の重要性の例としては、情報理論における「エントロピー」がある。もともと物理学において、乱雑さ、ばらばら具合、のようなものを扱う概念として「エントロピー」というものが知られていた。一方、情報理論において、その情報を知った時の驚き具合のようなものを数値的に扱うための量が提案されたのが1940年代。アメリカの科学者クロード・シャノンが、自身の考案したその量にどのような名前をつけるか悩んでいたところ、コンピュータ開発の立役者にして量子力学の数学的基礎理論の構築者、ならびにゲーム理論など多岐にわたる新しい概念を創出し続けた天才フォン・ノイマンが、エントロピーと名付ければいい、と示唆したとの逸話もある。「誰もエントロピーがなんたるかを知らないから」と言ったとか、言っていないとか……。いろいろな話が残っていて、つい最近読んだシャノンに関する評伝では、そもそもノイマンに相談していない、ような感じで書かれていたけれど、重要なのは、このエントロピーと名付けられた物理学の概念と情報理論の概念が、結局のところはまさに関係していた、という事実だろう。
おそらく、だけれど、名前が一致していたからこそ、両者の関係性を探ろうという気になった人も多かっただろうし、そして実際に研究され、関係性が明らかになっているのだから、「名前、重要」である。
捉えがたいもの、得体の知れないものには名前をつける。すると、その実態の一端が浮かび上がってくる。存在するものには名前があり、名前がないものは存在しない……というよりも、名前によって実態の一端が形作られるのかもしれない。それが適切な名前であれば定着するのだろうし、的を得ていなければ別の名前に変わっていくのだろう。名前が変わってしまった「それ」は、いっときの幻、儚い存在ではあるけれど、消えていく感じと実態を伴っていく感じは、この世界に立ち上がってくる境目、境界に位置していて、妖怪的な存在なのかもしれない。
妖怪や幽霊のように、得体の知れないもの。
得体の知れないものに、名前をつける。
そもそも、得体の知れないもの、というのは、自分の領域にないもの、である。
完全に自分に関係のない外側にあるものは、見えない。
だから、得体の知れないものは、自分と、その外側との境目に現れる。
逆に、境目を見るからこそ、新しい何かも見えてくる。
学際領域の研究、である。
少し、いや、かなり強引な引っ張り方ではあるけれど、学際領域の研究というのは、まさに境目に位置するものだと思う。研究だけではなく、最近話題の革新と言ってもいい。
例えばスティーブ・ジョブズがタイポグラフィを学び、その美意識を個人用計算機の世界に運び込んだ、という話は有名である。それは林檎機の洗練された設計に反映されているだけではなく、そもそも文字種の多さや綺麗さにもつながっている。
何もないところからは、何も生まれない。何かを別のところにもっていく。この差異を利用するところから、新しい価値が生まれる。
でも、いきなり境界に立ってしまっては、中心がよくわからない、曖昧なままになってしまう。
この世があって、あの世があって、その境目に妖怪や幽霊が、ある。
妖怪や幽霊が儚く感じられるのは、そこが境界だから、だろう。
境界というのは、そもそもが曖昧でぼんやりとしている。そこから何かが生まれるかはわからない、だからこそ恐ろしく、だからこそ面白い場所、である。
その場所を面白いと思えて、なにかしら新しいものを引っ張り出すことができるのは、自分がこの世にいるから、だろう。自分も妖怪なら、妖怪を怖いとは思わないだろうから。
学際的な何かをしようと思ったら、まずは自分の中心というものがしっかりとないと駄目、ということ。
何かを他の場所にもっていって価値があるのは、そもそも、その何かがしっかりとした中心をもっていたということ。
学際的な研究をするためには、まずは自分の専門がないと、そもそも学際的が何かすら曖昧で終わってしまうこと。
海外の人と話すとき、つまり異文化交流だって、日本文化のことを知っていないと海外の他の文化との違いもわからないし、こちらから説明もできないし……で終わってしまう。自分探しが大切だ、と思うのも、自分があって、その周りがしっかりとあって、そことの境界や違い、差異を感じ取るからこそだろう。
そもそも、周りがなければ、自分を意識することもないだろうから。
他の人がいて、自分がいる、と認識できる。
細胞が境界を持ち、身体が境界を持ち、心が境界を持ち、自分が形作られる。
境界の大切さ。
境界、といっても壁とは違う。細胞だって、細胞の外とやりとりをする。閉じこもっているだけではない。境目があって、外との違いがあるからこそ、次に進める。
外とは違うから、という拒否反応を起こすのは、違う。
その境界こそが、まさに異質であり、恐ろしいところだけれど、面白いところ、新しい何かが生まれるところでも、ある。
境界がある。外側がある。異界がある。
それに名前をつけて、手なづけることで受容してきたのが妖怪。
怖がりながらも、面白がる。
怪談。
楽しむ、という姿勢。
さて、学問でも、生活でも、そういう姿勢を取り続けることができるだろうか。
……と妖怪に問われている夏、である。