-
その 4 | 2019.08.31色々なことが、ゆるく、つながっている『ソラリス』スタニスワフ・レム (沼野充義 訳)、ハヤカワ文庫SF (2015)
『未来の二つの顔』ジェイムズ・P・ホーガン (山高昭 訳)、創元SF文庫 (1994)
『なぎなた』倉知淳、創元推理文庫 (2014)
『こめぐら』倉知淳、創元推理文庫 (2014)
孤独な時間。
一人だな、と感じるのは、一人ではない時間があるから。
他のものがあるからこそ、浮かびあがって気がつくことがある。
完全に孤立した概念はなく、ゆるく、かもしれないけれど、何かしらのつながりがあるのがこの世の常。
「グローバル化の時代」と目にする。耳にする。
少し前には「国際化の時代」と言われていたような気がする。
はて、国際化とグローバル化の違いはなんだろうか。
日常的に意識するようなものではなくて、頭の片隅にだけ置かれていたそんな疑問が、何かの書籍の一節を読んだときに氷解した……と書きつつも、書籍名を忘れてしまって適切に引用できない。情けないなあ、私……と嘆きつつも、一期一会、という言葉もあるし、と誤用して自分をごまかしてみる。
それはさておき、薄れゆく記憶の糸をたどると、国際化というのは英語では International で、つまり「国」nation の「間」inter という単語のつらなりからできている。「国」というものがあって、それがたくさんあって、それらの間をつなぐ、相互に理解する、というのが国際化とのこと。
一方、グローバル化とはいわば世界がひとつになること、らしい。「ひとつに」というのは、お互いの違いを理解して仲良くということではなくて、世界のどこに行っても、同じような内装、同じような品揃えの系列店で楽しむことができるというようなこと。
違いがあることを前提として前に進む方法が国際化で、違いそのものをなくしてしまう方法がグローバル化。それらは似ているようで、そこにはとても大きな違いがある。
もちろん言葉の定義だから唯一の正解はないのだろうけれど、この違いを知ってなるほどと思った。腑に落ちた、という表現を自分基準で久々に当てはめてもいいかな、という学びだった。
何かと、「普通はね」とか「世間ではね」と、画一的な物差しを持ち出しがちな自分ではある。けれど、学問の世界、例えば生物学の世界では多様性の重要性が謳われる。すべての生物が同じような特徴をもっていたのなら、今と違う気候や環境になってしまったとき、すべての生物が一斉に生きていけなくなるかもしれない。そのためのも、少しずつ違っている、ということが大切になる。
絶滅を防ぐための方法としての多様性や違い。そのとおり、なんて共感してしまって、多様性って大切なんだよ、と口にしたりすることも多い自分でもある。
だから、何も考えずに同じでいられるという安心感から、グローバル化は楽だな、と考えてしまうときもあるけれど、やっぱり大切なのは国際化の姿勢だろう、と思っている。
生物の世界だけではなくて、物理の世界でも「違うこと」は大切である。
熱い珈琲茶碗が机上に置かれているとする。原稿執筆に集中して、数段落を一気呵成に書き連ね、一息ついて手を伸ばすと、そこには冷めた珈琲がある。
冷めるためには、最初に熱くなければいけない。
熱くなければ、冷めようもない。
もちろん、高い温度から低い温度へ変わる、というよりは、高い温度が周りの温度に「なじんで」いく、というのが正しい。周りの温度は珈琲のそれより低いから、珈琲が冷める。かまどの中で執筆していれば、珈琲はきっと冷めないままでいてくれるだろう……蒸発してしまうだろうけれど。
さて、温度が高いということは、たくさんのエネルギーを蓄えているということを意味する。温度差を利用して蒸気機関を作ることもできて、つまり「違い」というのは「力」に通じる。
差があれば、何かしらを取り出せる。
では、どのくらいの力を取り出せるのか。
こういった議論を、なんとなくではなくてしっかりとするための道具立てが熱力学と呼ばれる物理学の一分野である。
違いとか、差に着目するのは他の学問でも同じこと。
経済でも、その土地で豊富に取れるものを、別の場所に持っていって売れば、価値になる。
情報でも、他の人が知らないことを、自分だけが知っていて利用すれば、価値になる。
差は力なり。
ふと思い出したのだけれど、宇宙というものは、最初に大きな違いができて、あとはその違いを消費しながら少しずつ冷えていく、一様に、均一になっていく途中にあるらしい。そう言われると少し悲しいけれど、行く末を知るためにも、昔の宇宙について知ることは大切だろう。望遠鏡は、時間遡行機であって、差を知るための素敵な道具。
閑話休題。
差は力なり、と書いたけれど、差に気がつかなければ利用もできない。
湯気が出ていなければ、熱い珈琲と冷めた珈琲の違いはわからないかもしれない。目の前の熱い珈琲を飲めば執筆や仕事が進むのに、差に気がつかないばっかりに、力を得る機会を見逃してしまう……というめちゃくちゃな話はさておき、見た目は似ているのだけれど、やはり違いがある、というものもある。
実は、差は力なり、ではなくて、差に気がつくことは、差を理解することは、差を利用することは、力なり、なのかもしれない。
見た目は同じだけれど、実は……という発想から、スタニスワフ・レムの『ソラリス』を思い起こす。
スタニスワフ・レム、と作家名を口ずさんでみると早口言葉みたいで楽しい……という個人的感想はさておき、クラクフの賢人とも呼ばれ、この中欧の小都市からほとんど離れることなく、世界を旅歩いたわけでもないのに思索的なSF作品を発表し続けたこのSF界の巨匠の一人は、地球から離れた場所での異星人との接触を身近なところから叙情的に、時には不気味に、最終的には大きなスケール書ききった。2002年にジョージ・クルーニー主演で映画化もされた『ソラリス』という表題を耳にした人も多いかもしれない。
作品は、とある惑星上に位置するステーションで研究を進める主人公に訪れる出来事を中心に進む。
そもそも、その場にいるはずのない人間が、いる、という恐怖感。
そして、とてもよく知っている人間のはずなのに、何かがおかしい、という違和感。
人間は、人間の思考という枠組みのなかで生きていて、違うものをどう理解できるのか、または理解できないのか、という思索へと誘ってくれる素敵な作品。秋の夜長のお供に、どうぞ。
SFの世界や人工知能の研究の現場で見聞きする問いに、人類が出会う新しい知性や知能は人類と同じような思考をするものなのか、というものがある。人造人間や計算機が、人間のように思考する必然性なんてない。そもそも、作られている物質が違う。電気的な何か、と、生物学的な何か、なのだから。
人工知能の研究でも、生物の脳を真似た構造で知能を達成しようとする、つまり深層学習と呼ばれる研究の先にこそ人間を超える知能がある、と信じる人もいる。一方で、ベイズ統計と呼ばれる数理的な枠組みを使った知能が役立つ、と主張する人もいる。
細かいことはさておき、思考などの知的活動をするために、ひとつの方法しかないなんて、決めつけることはできないはずだから。
私とあなたとも、同じように考えているかどうかも、実はわからない……と極論を言う人も出てくるかもしれない。そういった考えを哲学的に検証する「おもちゃ」として哲学ゾンビがあるのだろうし、「とりあえず信じることができるのは目に見える行動だから」という理由で心の内側よりも行動に重きを置く心理学の一分野もあるとのこと。「見た目は一緒でも、中身は……」という問題は色々な学問分野と絡む。「見た目は子供、頭脳は人工知能」なんて言われる日がくるかもしれない。
そういった知能のありかたについて、研究者が人工知能を創り上げるところから、創り上げられたものがどのような影響を及ぼすかに至るまでを壮大なスケールで表現した作品がジェイムズ・P・ホーガンの『未来の二つの顔』。思考方法が全く違う知能にどのように向き合うのか、どのように共存していくのか、という難しい問題を、ハリウッド映画のような感じの娯楽活劇気質で強引に解決してくれる。
もちろん、実際にどのように取り組むべきか、という問題がこんなに簡単に解決できてしまうわけでもなく、話の筋の巧みさにいったん騙されたあとで、しばらく経ってからあらためて自分の頭で考えてみることが必要となる。ただ、きちんと問題に取り組まなければいけないな、と思わせてくれるし、人間模様も描きつつ、先を読ませる手腕は抜群の作家の良品なので、一読の価値あり。
そういえば、古典落語に「蒟蒻問答」というものもある。身振り手振りで禅問答のやり取りをして、問いかけた僧が、自分が及ぶ相手ではなかったと観念したものの、その内実は、蒟蒻屋が、勝手な解釈で身振り手振りを返していただけ、というもの。具体的なやりとりと落ちを聴くと笑えてしまう。人間と機械の間までもいかずに、人間と人間の間ですらも、意図していることが全く違いつつも意思疎通や会話が成立してしまう、という例のひとつかもしれない。
少しくらいの違いなら、それこそ生まれ育った国が違って文化も違うけれど同じ人間であるという程度の違いなら、お互いに理解することもできるだろう。でも、地球人と異星人、もしくは人間と人工知能くらいの違いになると……どうだろう。完全に違ってしまっているものは理解できないかもしれない。
最近の若いもんは……なんて違いくらいで理解できないなんて匙を投げてしまうのは諦めがよすぎるけれど、それはさておき、理解できないな、と感じても、それらを滑らかにつなぐものがあればどうにかなったりもする。世代を超えて観られる映画、読まれる本などをきっかけに、話題が弾む、ということもあるのだから。
異なるものを滑らかにつなぐことの、大切さ。
たとえば、携帯端末機の画面操作、鍵盤や鼠といった入力装置は、情報の世界と人間とを滑らかにつなぐための仕掛けだし、そもそも、そういった情報端末機が、人間同士を滑らかにつなぐための仕掛け、でもある。
仮想現実や拡張現実なども接続装置。現実世界と異なる世界とを滑らかにつなげる。
数式だって接続装置。数学という綺麗な世界と人間とを滑らかにつなげる。
人工知能ですらも接続装置。人間では理解できないような膨大なデータの世界と人間とを滑らかにつなげる。
そもそも人間の脳そのものが、柔軟な接続装置だろう。世界と、自分とを滑らかにつなげるためのもの。感覚器官を通して、解釈する。あくまでの接続するためのものだから、外の世界そのもの、というわけではない。世界を、すこん、とそのままの形で自分が受け止める、なんてことはできないし、そもそも世界に意味を塗りつけるのは生きているものの役割なのだから。目の前にある林檎は、あくまでも物体であって、美味しそうな食べ物という解釈は、脳という接続装置によって作られたものだから。
だからこそ、ないものを見ることもある。錯覚もそうだし、妖怪や幽霊も。ないけれど、ある、のである。それらを楽しめるのも、接続装置があるからこそ、だろう。
そもそも、全てが同じ、均一な世界なら、接続装置なんていらない。一は全、全は一、など色々な悟りの世界はあるだろうけれど、世界と自分が混ざってしまったらそもそも自分というものもわからないわけで、外の世界があって、感覚器官があって、それを受け取る脳があって、と多種多様な接続装置を通しているのは、やはり自分と世界が違うから、でもある。
異なるものを、滑らかにつなぐもの。接続装置とはそういったもの。違いを認めた上で、どうやって捉えるか、どうやって理解するか、どうやってつながっていくか、ということが大切だし、人間にとって価値のある課題だと思う。
さらに考えを進めてみる。そもそも接続装置にだって多様性は必要なはず。真実はいつもひとつ、というわけではない。情報に接続する方法だって、一つに限るわけでもない。携帯端末機もあれば、鍵盤もある。攻殻機動隊のようなSF的に、脳と機械とを直結してしまう方法だって、実現するかもしれない。
未来の接続装置は、どのようなものだろう。
情報の世界と、だけではなくて、世界の人々と、書物と、学問と、宇宙と、いろいろなものとの接続装置。すべてを一種類で、携帯端末機があれば十分だよね、なんてことはないはず。何と言っても、差は力なり、なのだから。
未知の世界に飛び込む際にも接続装置があるといい。外国に行く、とか、そういったことだけではなくて、新しいことを勉強する、もっと身近なところで言えば、新しい趣味を持つ、という程度のものでも。
倉知淳の短編集『なぎなた』の著者のあとがきに、本格ミステリの入門編を書き続けるいう使命感、ということが書かれていて、素敵だなと感じた。ミステリはエンタメだから、とか、逆にエンタメなのに理屈っぽくて敷居が高い、という印象を持つ人もいるかと思う。あとは人間を書けていない、とか。でも、北村薫に端を発する「日常の謎」を扱いながら、優しさや残酷さをも含めて人間の心の動きを丁寧に書く作家も、特に創元推理文庫には多い。そういったところから本格ミステリの世界へと足を踏み入れた人も多いはずだから、これらの作品群も立派な接続装置だと思う。ちなみに、倉知淳については、上述の『なぎなた』よりも、同時期発売の『こめぐら』のほうが喜劇感溢れて面白いし、さらに言えば、倉知淳の代表作の猫丸先輩シリーズが個人的には好み、でもある。
話を戻すと、ちょっと敷居の高い世界へ一歩踏み出すためのもの、それは時には入門書と呼ばれるのかもしれないけれど、そういった書籍も、今の自分と、違う世界とを、もしくは未来の少し成長した自分とを、滑らかにつなぐための仕掛けとも言える。
注意が必要なのは、入門書は何かを薄めたものではない、ということ。入門書とは、内容をごまかさずに、初心者にも読みやすく、などのたくさんの工夫が凝らされれるべきものであって、単にわかったつもりにさせるものではないと思う。初めて触れる世界への理解が進みつつも、さらにまだ広い世界が顔をのぞかせているんだ、と思わせることこそが入門であるべきだろう。
知識や話題を、興味を持たせるために面白く書く、ということももちろん大変なことではあるけれど、思考へと続いていかない雑学は、学問への接続装置としては物足りない。扉に貼られた案内紙を眺めて楽しむだけではなくて、扉を開けて一歩を踏み出すところまで読者を誘う、そんな入門書を読むと嬉しくなるし、いつか自分でも書いてみたいものだとも思う。
そもそも学問は、一人でやるものだけれど、一人の中に閉じてくれはしない。学問への取り組みは孤独だけれど、取り組んだ成果は孤独からはほど遠いもの、つまり、みんなのためのものだから。
一人で取り組み、他の人と議論し、全員が、納得はできないかもしれないけれど少なくとも論理の道筋を理解できる、というのが学問だから。
そんな学問に取り組むためには国境はなくて、海外の研究者との共同研究をもっともっと、とせっつかれることも多くなった。世界の大学ランキングではこういった指標も大切ですから、とか、世界の人と一緒に発表すれば注目も浴びやすくなりますよね、という少し消極的な理由を言われると、これも一種のグローバル化が原因なのだろうか、と感じてしまう。
でも、やっぱり違いはあるはず、と思う。
肯定的な理由としては、文化の違いが思考方法の違いに出るから、協力することで新しい発想が生まれやすくなること、だろう。一括りにはできないけれど、西欧の一神教的に一つの中心を考える、とか、日本の八百万神的に分散的に考える、などはよく言われることで、そういった思考方法の違いはあるはずだと思う。もちろんその考え方も固定観念の一種で、捉われすぎてはいけないけれども、このように考えを進めていくと、やはり多様性が大切で、違いを認めつつ、違いをどう捉えて、違いをどのように活かしていくのか、といった視点が大切になるのではなかろうか、と感じてしまう。
そうすると、グローバル化ではなくて、国際化なのだなあ、などと考えて、グローバル化と国際化の違いという冒頭の疑問へと、ゆるく、つながっていく……。