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その 5 | 2019.09.30問題こそが、問題だ『時の娘』ジョセフィン・テイ (小泉喜美子 訳)、ハヤカワ・ミステリ文庫 (1977)
『六の宮の姫君』北村薫、創元推理文庫 (1999)
そもそも問題がどんなものであるのかわからないことが、問題だったりする。
自分の目の前に当たり前のようにあることに、疑う姿勢を持てるだろうか。
常識を疑え、という言葉があるけれど、言うは易し、行うは難し。
少し変わっているけれど名作だよ、という評判を以前から軽くは耳にしていた翻訳物の推理小説、『時の娘』。
安楽椅子探偵というのは、椅子に座ったまま事件を解決する探偵のことで、そういう推理小説のひとつの様式がある。この作品では安楽椅子に深々と座り込む探偵ではなく、いっときの入院を余儀なくされた警部が寝台の上で殺人事件の謎を解く。
そう、殺人事件、なのである。推理小説の王道。椅子が寝台に置き換わったくらいで《少し変わっている》とは言えないはず……と思ったら、変わっている部分は探偵ではなかった。
この作品では、殺人事件と言っても現在の事件が扱われるわけではない。薔薇戦争の頃に起こった英国の歴史上の残虐な事件とされる、リチャード三世による殺人に関する謎を、文献調査を頼りに解いていく、というもの。
《歴史的な》《殺人事件を》《解決する》……教科書に載っているような歴史的事実を、解決するとはどういうことか。
読み始めて少ししたあたりで、リチャード三世って誰だっけ、高校の世界史で触れたような気もする……という程度の歴史音痴の人間が楽しめるのだろうか、という心配が頭をよぎった。こんなたくさんの人名なんて覚えられないよ……なんとか候とかほにゃらら伯とか、名前と称号と混在して書かれるとわからん……あれ、これ誰だっけ?……これは同一人物かな?……など、もどかしい気持ちになったのも、事実。
でも、愉快さに溢れながら交わされる会話の流れにのって、主題である殺人事件の謎を解いていく過程は、まさに推理小説だった。読み進めながら、歴史を作り上げるのは勝者という立場の人たち、権力者なのだという事実を再確認させられ、その敗者とされた人に被せられた汚名がどんなものであったのか、リチャード三世に汚名を着せた真犯人は誰か、ということが少しずつ明らかにされていく。
もちろん、この小説に書かれていることが事実かどうかもわからない。
事実とは、なんだろう。
真実とは、なんだろう。
外から見えない心の中を明らかにするというわけでもなく、実際に起こったことを明らかにすることすらも、こんなにも難しい。
いくつかの事実がある。それをどのように結びつけるかで、真実の形も変わるのかもしれない。
真実とは実は、説得する、納得する、という行為で作られる、ふんわりとした柔らかいものなのかもしれない。
読んでいる途中で、《真実》という言葉のかちっとした印象が歪んで溶けていくようで心がざわつきもしたけれど、途中からは、歴史の謎を追うことを推理小説作家が書いたらこんなに面白く表現できるんですよ、ということを楽しむことができた。
そう、まずは楽しめれば、いいではないか。楽しめる作品だということは、少なくとも自分にとっての真実なのだ……と安易に《真実》を語ってみる。
それはさておき、ちょうど購入した際の文庫の帯の文句のなかに、吉良上野介の名前があった。日本の歴史においても悪者とされているこの人物も、その悪評には歌舞伎などで作られている側面があることが知られている。読了後にこの帯をじっと見つめながら、『時の娘』を師走に読みながら、忠臣蔵の、あの雪の中の行進の情景に思いを馳せるのも楽しめそうだ、と思った。
歴史的な事実は、専門家がしっかりと検証した結果であって、教科書にも載っているのだから正しいのでしょうね、と疑いをもつことも少ないかもしれない。けれど、実際には新しい歴史的事実がわかるたびに、教科書が書き換わることもある。
目の前の事実とされることを、ここには何かの問題が埋まっているかもしれないという視点で見直して、その問題提起をすることは、なかなか難しい。思わず素通りしてしてしまうような、事実とされる出来事に、ふと疑問を持って、そこに問題を見出す。それは、かの有名な英国の探偵、シャーロック・ホームズがワトソン君に、君は見ているが観察していない、と述べたことにも通じるものがある。
歴史の研究にだって推理小説的視点が求められるのだ……と推理小説好きとしては言いたくなるけれど、やっぱり推理小説と違う点がある。
解けない謎、かもしれない。
昔のことだから、調べてみてもそこに正解はない、かもしれない。
推理小説なら、最後に謎の解決が示される。解決されない推理小説を、推理小説とは呼ばない。
それでも、理解したい、と思うのは立派な動機だし、動機があるところに事件、つまり問題を見出すことも自然なことだと思う。
解けない問題かもしれないけれど、挑戦することの大切さ。
逆に、挑戦したい、という気持ちから、解けないかもしれない問題を見出すことの大切さ。
騙されているような、不自然な印象もあるかもしれないけれど、「研究する」という行為の根底には、この姿勢もあると思う。
そもそも問題とされていなかった問題を、問題として取り上げることは、場合によっては、余計なことを掘り起こして……と煙たがれるかもしれない。
それでも、ひっくり返して、まぜ返すことは、思索の、研究の第一歩だろう。
高校までの、いわゆる「勉強」では「問題を解くこと」を学ぶ。
そこで用意されている問題は、「解ける」問題であって、本当に用意周到に準備されている。それは問題を作る立場を一度経験してみると、とてもよくわかる。
大学では卒業研究、ないしは卒業論文という形で、これまで人類の誰も挑戦していない謎に挑む経験をする……と書くと仰々しいけれども、実際には、誰かが挑戦したことを、ほんの一歩、場合のよっては数ミリ程度かもしれないけれど、進めてみるという作業を経験する。
これは、卒業研究はたいしたことがない、と言いたいわけでは決してない。そもそも研究というのはこういった地道な進捗の積み重ねで、いきなり大きな飛躍があるなんてことは滅多にない、ということも自覚しておく必要がある。
大きな飛躍を狙うと、何もできずに終わる場合がほとんど。
一方で、小さな進捗ばかりでは困るのも事実で、誰もやっていないことをする、という意識を持ち続ける精神的な強さも必要。
それはさておき話を戻すと、高校生のときのように「解ける」問題というのは世の中にはほとんどない。そもそも答えがない問題が多い。
そして、何が問題なのか、を見つけることこそが重要で、これからの学生はそれをできるようにならないといけない、と各所からの声が聞こえてくるようになった。そういう時代なのだろう。
でも、問題を見つける方法を学生に教えるべきだと言われても、なかなか難しい。いくつかの工夫や道具立てはあっても、やはりそれぞれの人が、それぞれのやりかたを見つけることが大切だと思う。
だからこそ、卒業研究や卒業論文で、その体験をしてみることの意義は大きい。
卒業研究や卒業論文の題材そのものを、直接的な形で将来に活かせる人はあまり多くはないだろう。
だからこそ、問題の見つけ方、取り組み方、発表の仕方などが社会に出た後の力になるからね、と指導教員に言われて、とりあえずの研究題目に着手して何かしらの結果を出す、ということがほとんどだし、それはそれで大切なことではある。
ところが、である。
北村薫の『六の宮の姫君』という小説がある。
『日常の謎』という領域を打ち立てたこの著者の代表的な「私と円紫師匠」シリーズの四作目にあたるこの長編では、芥川龍之介と菊池寛など、文豪同士のやりとりから、芥川龍之介の短編『六の宮の姫君』に関する謎が明かされていく。
そして、解説に、この作品は北村薫の大学時代の幻の卒業論文をもとにしている、との記載があるのである。
なんて素敵な、研究と小説の出会いだろう。
そもそも謎なのかどうかにも気が付かないかもしれないところに、あれ、ちょっとこれはおかしいかもしれない、という疑問の種を見つけて、その種を大切に育てていく流れは、『時の娘』に通じるところもある。ただ、出版社での一時雇いをしつつ、卒業旅行にも行き、国会図書館で調べ、などの安楽椅子探偵というよりは行動派な探偵が、どのように謎を見出すのか、その謎とどのように向き合っていくのか、という流れを、卒業論文執筆を目指したわずかな期間ではあるけれど、その成長とともに味わえるのは素晴らしい読書体験と言える。
そう、作中でも卒業論文を執筆するため、という記載が出てくる。
文学の歴史。卒業論文。そして、推理小説。
解説にあった「幻の卒業論文」の「幻の」という形容が意味するところは何なのかまではわからない。けれど、こんな卒業論文を書くことができたのならどれだけ素敵な体験だったのだろうか、と考えると、なにやら頬が緩んでしまう。嬉しさが込み上げてくる。
とても、幸せな出会い。題材と、小説との。そしてその小説と、読者としての自分との。
文献調査による安楽椅子探偵、もしくは北村薫の幻の行動派卒業論文探偵から少し離れて、理系に目を向けてみる。以下の内容は、工学部で大学教員をしながら小説を書いていた森博嗣がどこかに書いていたこと。記憶違いがある可能性もあるので、その場合はご容赦を。
いわく、卒業論文では問題と解き方が与えられる。修士論文では問題は与えられるが解き方は自分で探す必要がある。そして博士論文では問題そのものも自分で探さなければいけない。
どの段階でも、もちろん世界の他の誰もやっていないことをする、ということに変わりはない。けれど、卒業論文の、指導教員がかなりのお膳立てをしてくれて、結果はまだわからないけれどそれを確認しながら作法を学びましょうね、という段階が始めで、最終段階が問題を自分で探すところ、なのである。
やはり一番難しいところは問題を探すところ、なのである。
おそらく、特に数学の分野で顕著なのだろうけれど、そもそも見出した問題が解けないものだった、ということだってある。
有名なものが、数学者ヒルベルトが二十世紀の初めに提示した二十三の問題のうちのひとつで、ゲーデルによって不完全性定理という形で解決された問題。
いわゆる普通に触れる数学では問題がないのだけれど、ある意味で特殊な設定においては、証明が正しいとも間違っているとも言えない可能性がある、ということが示されてしまった。
不完全性定理定理そのものは、証明できるともできないとも言えない問題がある、ということを意味している。そして、そのどっちつかずの状態がありうる、ということが証明された。この証明によって、数学の完全性というか無矛盾性というか、それが保証されなくなったと言える。つまり解くことのできない問題がでてきた、ということになってしまった……ややこしい。
クレタ人は嘘つきであるとクレタ人が言った……では、結局どっちなのだろう。
そんな簡単な話ではないのはもちろんだけれど、つまりは、今、自分が取り組んでいて、証明したいと思っている問題が、実は証明できるともできないとも言えない問題かもしれない、ということだ。
こうなるはず、と思っていたことを正しい証明できた、となれば嬉しい。検討の結果、実はこれは正しくない、と証明してしまう場合もあって、これは悲しいけれど、でも正しくないとわかれば、諦めて次に進むことができる。
でも、もし自分が取り組んでいる問題が、正しいとも、正しくないとも言えない問題だったとしたら?
いつになっても、諦めることができないとしたら?
そんな可能性が頭をよぎるとすると、はっきり言って怖い。
どうにか解決できるはず、と信じられるからこそ、問題に取り組むやる気も出てくるものであって、そもそも無理かもしれないなんて、そんな無慈悲なことがあってよいものか……と、いるかどうかもわからない数学の神様に文句の一つも言いたくなる。
まあ、実際にはそういう特殊な場合に行き当たることはあまりないだろうから、こういう問題を解けるといいな、とあれこれと頭をひねって、予想という形で提示するのだろう。あとはその予想が正しいと証明するか、もしくは間違っていたと証明するか、そんな感じで研究は進むのだろう。
数学者ではないから実際のところはわからない。けれど、解けるはず、という信念が一番大切だと思う。
ふとしたことが気になって、問題を作る。形を整える。
あまりに抽象的な形だと、そもそも応えようがなかったりもするし、あまりに具体的すぎると、答えるのが簡単すぎたりもする。作った問題が、全然たいしたものではなくて、評価されないことだってあるだろう。せっかく問題を作っても、手も足も出ないような難解なものであって、解けるような気がしないために、誰からも見向きされないということだって、あるかもしれない。
それでも、本質的な何かに手が届くような、そんな鍵となるような問題を作ってみたいし、解いてみたいと思う。
足元だけをみていると、そんな、珠玉のような問題に行き当たることは少ないかもしれない。
誰かが照らしてくれている懐中電灯の灯りの先だったり、夜道の街灯に浮かび上がる地面だったり、そういった探し物をしやすいところに目が行きがちではある。けれど、本質は暗闇の中にあるかもしれないし、誰も気がついていないような場所こそ、探す価値がある。その暗闇に一歩足を踏み出すための道具が、そもそも問題は何なのかを見定めること。適切な問題を作ることができたら、もう解けたも同じ、と言われたりもする。問題と聞くと、義務教育時代の嫌な記憶を思い出したり、解決しなきゃ、と頭が痛くなる人も多いかもしれない。けれど、問題がなかったら、解決することだってできない。問題があるからこそ、先に進めるし、暗闇の中に落ちている、とても大切な何かを拾うことだってできるようになる。
まず、問題がある。
問題を形作ることこそが、問題。
今の人工知能や機械学習は、問題を解くことが得意になってきている。
将棋や囲碁で勝つ、ということは、今のこの状況から始めて最終的に勝つためにはどうすればいいのか、という問題を解くこと。
この写真には写っているのは犬か猫かに答えることも、どちらか、と問われている問題を解くことに対応している。
問題に答えることは、それほど難しくはない。
《いい》問題に答えることは、なおさら難しくない。
《いい》問題を作れたら解けたも同然。
《いい》問題を作ることが、難しい。
実際、問題を作る、つまり定式化したらそこで満足する人もいる。残りを解くのは他の人に任せてしまう、という感じ。ちょっと傲った印象があるかもしれないけれど、真の天才というのはそういうものかもしれない。
私もそうだけれど、何か気になることがあると解決したくなってしまう人は多いだろう。それは、本当に答えがあるのだろうか、大丈夫なのだろうか、という不安感から生じるものだと思う。
天才は、おそらく、違う。
この方向性で考えていけば問題を解けるし解決できるとわかっていたら、最終的な答えが手元になくても、心は穏やかでいられるのかもしれない。だから解く必要がない。その分、そういった直線的で簡単な道筋が見えるくらいにまで、しっかりと深く考え込んで、その上で解くべき問題を形作る。そこまで深く考える、という体験はなかなかできないはず。
だからこそ、現在の計算機の上に作られている人工知能は、天才にはかなわない。問題を解く、ということは、何かしらの計算をして答えを出すこと。「計算しない計算機なんて作れない」とは、森博嗣の小説に出てきた一節だった。
今の人工知能には、問題設定を人間が与えてあげる必要がある。問題が与えられた際に、実際に解くところを担うのが、今の人工知能。
解くところは非常に優秀で、人間の能力を上回りつつある。
けれど、問題を自分で見出すことには、まだ成功していない。
人間と人工知能とではどちらが優秀か。
もちろん評価基準によるのだろうけれど、どういう問題を考えるべきか、解いた答えをどのように利用するか、を考えるのは人間だから、人間のほうが優秀、と言えるのかもしれない……と単純に納得してしまってよいのだろうか。ふとしたところに楔を打ち込んでみる、というのが問題を見出すために必要なことだったはず。
ということで少し考えてみると、結局、何かを作るのも人間、それを利用するのも人間だから、人間が絡むのは当たり前だなあ、という点に思い至る。
人間の、人間による、人間のための人工知能。
それなら、何に利用するかという出発点も、どのような価値を生み出せるのか、という終着点も、人間が考えて評価する必要があるのも頷ける。
だから、もし、人工知能の、人工知能による、人工知能のための人工知能、なんて状況を考えたら、人間不在で世界が進んでいくのかもしれない。
もし、人工知能の、人工知能による、人工知能のための人間、ならば小説で見かける反理想郷。
動物は夢を見ない、という学者がいる。
夢を見る、という定義にもよるだろうけれど、犬や猫を観察すると、どう見ても寝ぼけているとしか思えない場面に遭遇する。ハムスターですら、寝ながら口をもぐもぐさせたり、足をバタバタさせたり。あたかも餌を食べ、回し車を回っているような可愛らしい仕草を見せてくれる。
さて、動物は夢を見るのか、という問題を作ることはできるけれど、これだけでは解くことはできない。そもそも夢を見るという状態がどのようなものか、を定義しないといけない。それが適切な問題を作るということ。
夢を見る状態を定義する、ということ自身もまた難解な問題で、答えがあるかどうかもわからない。けれど、答えがあるかどうかわからない問題に挑めるというのが、人間の素晴らしい点のひとつ。
そして実際に、脳波をもとにした研究が進んでいるし、さらには意識を定量化するための数学を作り出そうという試みも進んでいる。
そんな、取り組むべき価値のある、夢のような問題に出会いたい、いや作りたい、と願う。
問題を作るために必要なこと。様々な勉強をして知識を蓄え、ひたすら考え抜くこと。
その膨大な準備の末に、暗闇の中に、ようやく何かしら、これを解けばいいのかもしれない、という光が見えてくる。それが適切な、解きやすい問題を作るということ。
その大変さに怖気付かずに挑戦できる、というのも、人間の素敵なところだと思う。
さて、その人間の素敵さを浮き彫りにするための、適切な問題とはどんなものだろうか。