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その 6 | 2019.10.31あれがあったから、こうなった、のかもしれない『犬は勘定に入れません 上・下』コニー・ウィリス (大森望 訳)、ハヤカワ文庫SF (2009)
『ボートの三人男』 ジェローム・K. ジェローム (丸谷才一 訳)、中公文庫 (2010)
『オデュッセイア』ホメロス (松平千秋 訳)、岩波文庫 (1994)
『ユリシーズ I〜IV』 ジェイムズ・ジョイス (丸谷才一、永川玲二、高松雄一 訳)、集英社文庫ヘリテージシリーズ (2003)
『高慢と偏見』ジェイン・オースティン (阿部知二 訳)、河出文庫 (2006)
『高慢と偏見とゾンビ』ジェイン・オースティン & セス・グレアム=スミス (安原和見 訳)、二見文庫 (2010)
『高慢と偏見、そして殺人』P・D・ジェイムズ (羽田詩津子 訳)、ハヤカワ・ポケット・ミステリ (2012)
夜、職場を出て少し歩くと、暗がりの遠くのバス停に止まっている車両の灯りが見える。よし、間に合いそうだ、あと少し……と歩みを速めた時に、後部方向指示器がバスの出発を告げる。ゆっくりと動き始める車両を呆然とした気持ちで眺めながら、ああ、出る前に塵を捨てになんて行かなければ間に合ったのに……明日捨ててもよかったのに……と少しの後悔をする。
あれがあったから、今、こうなった。
因果。
原因と結果。善いおこないをすれば良いことが起こる。もしくは、悪いことをすれば相応の報いを受ける、という意味合いのときもある。
あのときああしなければ、こうはならなかったのに。
反省はしても後悔はするな、という文句を謳う人生指南書を書店で見かけるけれど、そういった本が作られて売られるのは、実際に後悔をしている人が多いからでもあるのだろう。
後悔する人がいるから、人生指南書や自己啓発本が売れる。これもひとつの因果の形。
ときどき、読書の方法で悩むときがある。もちろん、さきほどの後悔の話ではなくて、である。
読もうと思っている本が、何か、別の本を下敷きにして成立している場合がある。尊敬という名の下に、その作品を読んでいる前提で、新しい物語が紡がれる。
悩むのは、その元となった本を読むべきかどうかということ。
もちろん参考にされるほど有名な作品だからこそ、皆が知っていて、読んでいることが前提になるのだろうし、読んでいないとなると読書好きとしては少し恥ずかしいということになるのかもしれない。けれど、例えば英国人の頭の中にシェークスピアとマザーグースが入っているからといって、日本人である自分には、特に欧米の童謡であるマザーグースまではなかなか距離があるのも事実。桃太郎とか、舌切り雀とか、日本の童謡であれば慣れ親しんでいるのに……とアガサ・クリスティやディクソン・カーの、マザーグースを題材としている作品などを読みながら、だからこそ、こういった小説で題材として使われることは、海外文化や文学に慣れ親しむいい機会なのかもしれない、とも思う。
そんなわけで、古典である。
最近の、自分が好きな作家が執筆した作品を楽しむために、それまであまり親しむ機会のなかった古典を読む。
鶏が先か、卵が先か、ではないし、もちろん読書の場合には卵、つまり古典が先であることは確実なのだけれど、読む順番が生まれた順番になるとは限らない。なぜなら、何も知らずにただ好きな作品を読み進めていくと、作品の途中で、実は古典を下敷きにしているということに初めて気がつく、ということも多いから。
前の作品、次の作品、といった場合に因果という言葉を使うことは適切ではないけれど、元となるもの、次に生まれたもの、という意味合いで拡大解釈をして、因果という言葉で思索を続けてみる。
コニー・ウィリスのSF作品、『犬は勘定に入れません』。しばらく続いた激務で疲労困憊の主人公が休暇のために、輝かしき19世紀ヴィクトリア朝の時代に時間遡行機で移動する。そこで繰り広げられる喜劇はもちろん、当時の貴族文化のゆったりとした雰囲気も感じられて、楽しい一冊である。
その作中に出てきたのがジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』。SFならではの意外な登場の仕方でもあり、読み始めるまでは知らない作品だった。そんなに有名な作品なのだろうか、と思って調べてみると、丸谷才一による翻訳があるし、どうやら非常に有名な作品のようだった。
ようやくその翻訳を手に入れたのは『犬は勘定に入れません』の読了後で、つまりは因果の「因」のほうを後に読むことになってしまった。順番が逆になってしまったわけである。
英国ユーモア小説の古典である『ボートの三人男』も面白くは読めたけれど、やはり現代的な感覚で書かれているからだろうか、ウィリスのほうが断然、面白い。前の作品を題材にするからにはうまく料理をしてより良い作品を、ということ以上に、テンポが心地よくて、上下2冊の分厚い本なのに長さを感じなくて、しかも英国ユーモア小説の代表作であるP・G・ウッドハウスの某執事作品っぽさもあるなど、いろいろな「因」を本当に上手く取り入れている。
その後、ウッドハウス作品も読み進めてしまったりしていたのだけれど、そんな折、光文社から『ボートの三人男』の新訳が出版された。なんと、この新訳には副題が付いていて、そこには『もちろん犬も』とあった。
犬、である。
ウィリスの作品の題名にも『犬』が入っていた。
いや、そもそも作品を読んで、ウィリスのほうはどちらかというと猫だよなあ、と思っていた。実際、ウィリスの『犬は勘定に入れません』では猫探しが前半の大きな主題の一つである。『ボートの三人男』の作中には犬が出てきたから、古典に敬意を込めてこの表題にしたのかな、と漠然と思っていたけれど、光文社からの新訳を見てから調べてみると、なんと『ボートの三人男』の英表題は『Three Men in A Boat (To Say Nothing of the Dog!)』だった。「因」の副題そのものを、「果」の表題にしていたのだ。
このように、原典を当たって初めてわかることもある。ふと、そもそも英語の原作から日本語の翻訳へのつながりも、「因」と「果」と言えるのかもしれない、とも思った。なにしろ、原作がなければ翻訳もないのだから。
過去から現在へ。現在から未来へ。
原因から結果へ。その結果はまた新たな出来事の原因となる。
すべてが、つながっていく。
原典と、それを元にした新しい作品。
原典が古いということは、それだけ読み継がれていた証でもあるだろう。文体や表現に古めかしい感じがあることは否めないし、だから少しとっつきづらいかもしれないけれど、その中心にある題材は普遍的なものであったり、つまり、心にずっしりと来るもの、のはずである。
すなわち、古い原典に依る作品のほうが現代的な解釈を加えて楽しめるものに仕上がっているはず……。
コニー・ウィルスを読んだ際の素敵な読書経験に味をしめたこともあって、今度はホメロスの『オデュッセイア』を読み、続いてジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』へと読書の手を進めてみた。きちんと「因」から読み、続いて「果」へと進んでみたわけである。
『オデュッセイア』は英雄オデュッセウスの長い帰郷の冒険譚で、ポセイドンやらセイレーンやら、あれやこれやと有名な題材が出てくる。もともとは本ではなくて、吟遊詩人が謡う作品だったという事実を、もちろん吟遊詩人になんて会ったことはないけれど、なんとなく感じさせてくれる一冊だった。
一方で『ユリシーズ』は英国の都市ダブリンの一日を、文体や視点を変えるなどの様々な趣向を凝らしながら描き切る……そう、まさに描き切るという感じの作品だった。近代主義文学として、また非常に長い作品として有名なこの作品のことは以前から知っていて、『オデュッセイア』に呼応した形で章立てが構成されている、ということも耳にしていた。
そこで今回は『オデュッセイア』から読み、そのあとで『ユリシーズ』へと歩みを進めたのだけれど、正直なところ、『ユリシーズ』の現代的過ぎる部分は面白い試みだなとは感じつつも、読み進めるのが大変だった。通勤の車中でうつらうつらとしてしまうときがあったのも事実。逆に『オデュッセイア』では次々と物語が展開していき、その流れが楽しい。行間を読ませることもあまりないためか情緒とかそういうものはあまりなくても、ぐいぐいと引っ張られる感じが逆に現代的かもしれない、とも感じた。
『ユリシーズ』にはいくつかの翻訳が知られていて、通勤のお供に、ということで文庫版の、それでも一冊一冊が分厚い丸谷才一らによる翻訳版を読んだのだけれど、語り口調、古文調などなど、電車で横に立っている人がちらっと見たら何の本を読んでいるのか訝しむような紙面が続いていた。もちろんジョイスが英語の文体を様々に変えたことに呼応して、そのジョイスの挑戦を受けてたつ、という感じで趣向を凝らしたわけである。訳者の苦労に本当に頭が下がる……ジョイス、許すまじ、という訳者たちの恨み節まで紙面から読み取れてしまいそうである。英語の古い書き方を、古文調で表現する発想など、まさに翻訳そのものも、日本の古典からの因果を利用しながら、なのだった。
そのような、いろいろな過去の集大成で、新しい文化が作られている。ニュートンが「巨人の肩の上に立つ」という形で、科学は前人たちの業績の上に成立していることを表現したのだけれど、実はこの「巨人の肩の上」という表現は別の人が使った言葉であって、ニュートンが考案したものではないらしい。こんなところにも因果が埋まっていた。
ちなみに、もう内容の紹介はしないけれど、『高慢と偏見とゾンビ』という現代の作品を読みたくて、すでに古典となっている『高慢と偏見』を読んだ。両方をあわせて読んだ人はわかると思うけれど、これはもうお腹いっぱい、という感じ。そしてなんと、つい最近になって『高慢と偏見、そして殺人』という作品が出ていたことも知り、読んでしまった。これは『高慢と偏見』の後日談という位置付けだったから楽しく読めたけれど、何の因果か、こんなものまで……と感じずにはいられなかった。ゾンビ、そして殺人までいくとは……。
そもそも古来から物語というのは、語り手が、昔から伝えられていることを「ものがたる」ものであった。昔があって、今がある。何かがあって、何かが起こる。
こういうことをしてはいけないよ、なぜならこういう結果になるから、という教訓めいた物語もたくさんあって、そういった因果をわかりやすく伝えるための手段としての側面もあったのだろう。
世の中、すべては因果であって、つながっている。
……でも、何か二つの出来事について因果だと判断するためには、どちらが原因で、どちらが結果なのかがはっきりとしている必要がある。
実は、因果、つまりどちらが原因で、どちらが結果がわからない場合もある。
玉突き。
球がぶつかる。次の球を押す。
ぶつかっていった球が「因」。押された球が「果」。
でも、そこに球が置かれていたから、ぶつかっていった球の動く向きが変わった、とも言える。そのとき、何が「因」で、何が「果」なのだろう。
球がぶつかる様子を映像にとる。球Aが動き、球Bにぶつかる。球Aはその場に留まって、球Bが弾き飛ばされる。
その映像を逆再生すると、球Bが動き、球Aにぶつかり……と全く逆の因果を見て取れる。球の部分にだけ着目すれば、おかしなことはない。物が物に作用するという物理法則は、時間を反転させても変わらずに存在し続けるのだから。
どちらが「因」で、どちらが「果」か。
もしくは、そこにあるのは法則だけで、因果はないのか。
世の中は因果で成り立っているというのは真実だろうけれど、一方で、時間を逆向きにしても成立するというのも、物理学が明らかにしている世界のひとつの形でもある。因果というのは「因」のあとに「果」が来る。つまり時間の方向がある。でも、玉突きの映像の逆再生のように時間を逆向きにしても成立するのは方程式で書かれた物理法則にしたがった結果で、「因」と「果」の順番がわからなくなる。
もちろん物理学のなかにも色々な立場がある。時間の矢は確かに存在する。こぼれた水は、戻らない。淹れたての珈琲は、気がつくと、すぐに冷めてしまう。
だから一概には言えないけれど、玉突きの例が意味するのは、因果の側面から世の中を捉えるのではなく、物事の法則を見出すという立場もある、ということなのだろう。
でもその法則が「因」となり、目の前の出来事としての「果」を産む、とも言える。
……ますます頭を抱えざるを得ない状況かもしれない。
情報の世界における因果について考えてみる。
人工知能や機械学習に関係することと言えば、『相関と因果の違い』である。
例えば、チョコレートをたくさん消費する国ほど、ノーベル賞を取っている、というデータがある。
それならば、ノーベル賞を取るためにはたくさんチョコレートを消費しよう……と考える人は、まずいないだろう。おそらく西欧のほうがチョコレートを消費する文化で、ノーベル賞を取りやすい文化的背景もある、などの理由が背後に隠されているのだろうと推測されている。
もう少しわかりやすい例は、血圧が高いほど平均収入が高い……はず、というもの。実際にデータを確認したわけではないのだけれど、これは真実だと思う。だって、一般には年齢が上がるほど血圧も上がり、そして年功序列だった日本の給与体系ならば、平均収入も高くなるはずだから。
そのからくりを知ってしまえば、収入を増やすために血圧をあげよう、と考える人はいないだろう。
もうひとつ。家族での会話が多いほうが、子供の成績がよい、という逸話。会話が多い家庭というのは、父親が残業もなく早く帰ることができる仕事なのかもしれない。つまり、余裕があり、収入も高い家庭かもしれない。それならば、子供の教育にお金をかけられるから、成績がよいのかもしれない。または、余裕があるからこそ、親が読書をしたり、勉強をしたりする姿を見せる機会が多いのかもしれない。子供がその親の姿を見て、自分も勉強をしようかな、と思うのかもしれない。
勉強をしなさい、読書をしなさい、と繰り返し言うよりも、勉強や読書は楽しい、という背中を見せることのほうが、教育効果は大きい。
相関というのは、単に、そこに関係性があるということ。
何かが大きくなれば、別の何かも大きくなる。
負の相関の場合であれば、何かが大きくなれば、逆に別の何かは小さくなる。
それは、因果とは関係ない。
何かしらが背後に隠れていて、その因果によるものかもしれないけれど、見た目の相関が因果に直接つながっているわけではない。
人工知能、機械学習の世界では、そこにデータがあるだけ、である。
あるデータと、別のデータが、目の前にある。傾向が、目の前にある。
機械は単に、その傾向を掴み取るだけであって、そこに因果を見出すことはない。
因果があるかどうかを判断するのは、今のところ、人間の役割として残されている。
目の前にあるものに、騙されないこと。
AならばB、BならばC、・・YならばZ。よってAならばZ。
論理的な帰結は、その間までしっかりと説明されれば理解しやすい。でも、いきなりAならばZ、と言われると、理解できない。省略されると、不思議だ、と思う気持ちが芽生える。
この、ある種の奇術を利用すれば、推理小説が出来上がる。シャーロック・ホームズが事件を解決できるのは、その出来事の間を埋めることができるからだし、アーサー・コナン・ドイルの推理小説を楽しめるのは、その出来事の間を省略して物語を提示するから、である。
名探偵は、因果を読み解く専門家。
さて、情報の話に戻る。
深層学習と呼ばれる技術は、間を省略する。見事に、飛ぶ。
この入力を入れると、この出力になる、という結果を与えてくれはするし、それは学習するデータの特徴を見事に捉えたものになっている。省略された間をなんとなく推測することはできたりもするけれど、基本的に、そこには因果はない。相関があるのみ、である。
もちろん、因果を組み込んだ技術もある。それがベイズ推定と呼ばれる枠組みの技術であって、ベイズ推定では、因果関係をモデル化して、数式として表現し、学習をしていく。だから、因果関係を扱えるし、この入力だからなぜこの出力になるのか、ということも比較的理解しやすい。
だから、ちょっと安心できる。
その代わりに、因果関係を実際のものとは勘違いして理解してしまい、現実とは異なる因果関係のモデルを使ってしまうと、性能ががくっと落ちてしまったりもする。因果とは、かくも扱いづらいものでもある。
こういう因果が存在する、と信じるからこそ使える技術でもある。
信じる、という気持ち。
これならば、うまくいく。
これも一種の「因」と「果」なのかもしれない。
どうも、理屈がわからないと、不安になる。人間は、そういう生き物なのかもしれない。
これがあったから、こうなった、と納得すること。理解できること。
この安心感、楽しみを巧みに利用したのが推理小説だろう。そして現実世界の事件や事故でも、同じことが言える。ある事件が起きる。誰かが誰かに、悪さをする。報道番組のコメンテーターが、犯人がなぜこういう行為に及んだのか、理解できませんね、と言う。たしかに理解できない……と見ているほうは、不安になる。犯人は過去にこういう経験をしていて、だからこういう理由で……と別のコメンテーターが言う。なるほど、それならばあり得るかもしれない、と少し安心する。安心するのは、そういう背景を持った犯人のような人が身近にはいないな、と感じられるから。動機がないのに事件が起こると、怖い。自分の身にも起きるかもしれないから。一方で、動機があるのなら、それは自分からは縁遠いものだな、と感じられれば、安心できる。
実際は、別に同じような環境だったからといって皆が同じ行動をとるほど単純ではないし、だから安心できるようなものではないかもしれない。けれど、安心のために理屈を探し、因果を見出す。
因果は、人間が生物として生存していくために、必要だったのかもしれない。なぜなら、因果は相関よりも一歩深く世界に踏み込んだものだから。
因果は、世界のモデル。世界のモデルがわかれば、応用できる。
相関だけでは手の届かない利点を見つけたい、という欲求こそが、前に進むためには必要だったのかもしれない。そう考えると、今の人工知能の基礎となっている相関だけでは、足りない何かがあって、届かないどこかがありそうである。
相関に基づいて推理をして事件を解決する名探偵がいたら、面白いかもしれない、と思った。
でも、読者としては納得できず、楽しめなさそうでもある。
何もないところから何かを生み出すことは、とても魅力的に見える。
完全に自己完結した作品は、読み手としては事前知識が不要で、安心できるかもしれない。
けれど、もっと奥に広がりがある、他の作品とのつながりがある、と気がついたほうが、より世界が広がって、素敵なことだと、思う。
こんな発想が、何かの「因」になればいいな、と夢想する。