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その 7 | 2019.11.30この世界の、仕様書が欲しい『われはロボット〔決定版〕』アイザック・アシモフ (小尾芙佐 訳)、ハヤカワ文庫SF (2004)
『屍人荘の殺人』今村 昌弘、創元推理文庫 (2019)
推理小説を読む。不可解な犯行。いったいどうやったらこんな状況を作り出せるのか。
探偵役の青年が、時に間違った推理を披露し、いくつかの活劇もこなす。
さて、肝心の謎解きだ、という段になって、犯人は超能力を使って犯行をおこなったのです、という結末を読んだら……私なら、怒ってしまうかもしれない。
不公正な仕掛けは推理小説では許されない。決まりごとがあって、その中でいったいどのようにして不可思議な犯罪がおこなわれたのかを不思議に感じ、それが鮮やかに解決されるところが一番面白いところなのに。
冬の訪れが近づく夜長の至福の時間帯は、穏やかな気分で安心して読書をしたい。殺伐としがちな推理小説を読みながら穏やかとは何か、とも思うけれど、それはさておき、不公正とはなんだろうか、について考えてみる。
もちろん手がかりをきちんと提示しないで、謎解きの時に、実は……、なんて言い出すのは不公正だけれども、もっと手前の段階で、少なくとも、現実にありない、もしくはありえそうにない理由を持ち出してしまったら不公正だろう。物理法則を破るような、そんな理由を。
この世界には物理法則という名の決まりごとがある。この決まりごとによって壁をすり抜けることはできないからこそ、密室が密室として成立する。
手がかりを提示しないで、と書いた。それなら、壁をすり抜けることはできないなんて作品のどこにも書かれていないではないか、不公正ではないか……と文句を言う人はいないだろう。この世界の決まりごとは日常生活で嫌というほど理解しているから、改めて小説の中で説明されなくても、すとん、と腑に落ちる。
もちろん、非常に小さな、極小の世界、量子力学と呼ばれる物理法則の影響が強い世界では壁をすり抜けることもできる。どの世界を小説の舞台として選ぶのか、そしてそれをどのように読者に伝えておくのか、なかなか難しいところでもある。
古典落語をしづらくなった、という記述を何かで読んだことがある。主に江戸時代の暮らしをもとにした話の場合、その暮らしの感覚が現代とは大きくずれてしまうから、そもそも話の落ちにつながる部分を先に説明する必要が出てきてしまったりする。すると、先に説明が長々と続くことになって話の流れが悪くなる。そもそも話の落ちを解説しなければいけないなんて、ちょっと興ざめだろう。
決まりごとを皆がわかっているからこそ、成立するものもある。皆が共有できる大きな物語が消失してしまい、小さなたくさんの世界に分断されてしまった。話を通じさせるために共有しなければいけない決まりごとを、どのように他人に伝えればよいのだろうかと、迷うことが多くなっている気がする。
あえて特殊な設定を作り出して、その世界の決まりごとを私たち読者に丁寧に、しかも自然に理解してもらいながら、不可思議な状況を作り出すことはなかなか難しい。たとえばハードSFと呼ばれる、現代物理学や工学の最先端の知識にちょっとだけ虚構の調味料を振りかけた作品群は、身近な世界から遠く離れた状況へと私を誘ってくれるけれども、置いてけぼりにされてしまう読者もどうやら多いようである。なにしろ、難しい。私も、ときどきついていけない。
そんななか、うまく状況を設定して、しかも小説として抜群に面白い、という作品に出会える時があるから、やっぱり読書をやめられない。
もう大いなる古典と言っても過言ではないかもしれない、アイザック・アシモフの『われはロボット』。SF作家かと思いきや、ミステリ作家……でもあるけれど、大学教員でもあったアシモフの作り出したロボット三原則。ロボットは人間に危害を加えてはならない……から始まる非常に単純な、しかも納得のいく三原則なので、読み手の頭の中にすっと浸透する。そのあとで、ロボットが生み出す予想だにしない事故や状況を、その三原則を手掛かりにきちんと論理的に解決していく様子は、SFというよりもまさに上質な推理小説。これほど単純な決まりごとから豊かな世界が広がるなんて、と謎解き以上に驚き、その読了後の感動はひとしお、である。
もう一冊、小説の紹介を。今村昌弘による『屍人荘の殺人』は、これまた特殊な設定における推理小説。題名がこれなので、ネタバレにはならないとは思うけれど、いちおうここでは内容を伏せておく。ただし、作中でその特殊な決まりごとをきちんと説明しながら、その決まりごとならではのトリックがきちんと用いられている良品である、ということは明言できる。はっきり言って、うまい。読んでいる時には「なんでわざわざこんなことを?」と思うような行動も、決まりごとに照らし合わせると自然と納得できてしまう。解決編を読みながら何度も一人で頷いてしまった、そんな驚きの作品。
『屍人荘の殺人』は、読んでいて映像が思い浮かぶような、そんな映画的にはベタな設定かもしれないけれど、それがまた推理とうまく融合していて……と思っていたら、きちんと映画も作られている。そう言えば、『われはロボット』もウィル・スミス主演で映画化されていたのだった。ただ、こちらの映画は小説そのものの持つ、工学者や技術者の視点からの鋭い眼差しと苦労話からは少し離れた活劇大作になっていたけれども……。
昔、『シムシティ』という計算機遊戯が好きだった時期がある。計算機の中に広がる世界とその中での人々の暮らしが本当の現実の世界のようで、自分の思うように街を作り、育てることが面白かった。どのようにすれば人口が増えるのか、住民からの苦情が減るのか、商業地域が発展して高い建物へと建て変わるのか、など、理屈を考えながら街をいじった。もちろんそれは計算機のなかのことであって、現実に警察署を作ったからといってその周囲の地価が上がり、高い建物が建つわけではないだろう。現実はもっと複雑なものだ。計算機のなかでもそれほど期待した通りの結果になることは多くなかったし、計算機遊戯としてうまく作られていたのだと思う。でも今になって思うと、結局は計算機遊戯の製作者がいて、その人たちの書いたコードの上で遊んでいたわけで、だから現実がどうなっているかを考えるのではなくて、計算機遊戯の製作者の意図を読み取ることが大切だったのかもしれない。子供だった自分にはそういう意識はなくて、実際の街を作っているつもりだったけれど、振り返ってそう考えると、少し寂しい気もする。
誰かの掌の上で遊んでいる、ということ。
けれど、世の中の、人間が絡むこの世界は誰かが作った決まりごとで動いていることも多い。計算機遊戯だけが特殊なことではなくて、この遊戯の教えてくれるこの教訓は、普遍的で、当然のこととして理解すべきなのかもしれない。
人間の社会のからくりに関する理解も進んだと思われているからか、そう言えば最近、決まりごとを作る立場になれ、と主張する人が世の中に多くなったようにも感じる。決まりごとのなかで動かされる立場だと弱い、決まりごとを作る立場になることこそが大切、という商売のお話。
ただ、それほど世界の決まりごとは単純ではないようで、経済は相変わらずだし、思った通りには進まないようでもある。
何かしらの製品を作ったり、計算機のプログラムを書いたり、というときには仕様書を作るのが世の中の普通のようで、その仕様書にはどのような機能が必要なのかなどの要件や要求が書かれている。仕様書にない機能は、実現できていなくても文句を言えない。下手な仕様書を書くと、望みのものが全然作られていない、ということもある。逆に、仕様書がうまく書かれていれば、そこには望んだ製品、望んだ世界が広がる。
仕様書は、小さな世界の決まりごとそのもの。
決まりごとや制約があるから、動きづらい。
でも、制限されるからこそ、自由で豊かになる、という場合もある。
何もない世界は、何もない。何もないのだから、何もできない。
一方で、なんでもできる世界もまた、何もない。
たとえば、空間を移動することを考える。上にだって、下にだって、どこにでも移動できる世界。なんでも、どこにでも行くことのできる世界。逆に、どう移動していいのかわからない世界。
地面があって、地に足をつけて生きる。
それは制約だけれど、地面があるから建物を建てることができる。居場所ができる。そして、いろいろなところに自分の足で歩いて移動する自由を手に入れる。
目的地が定まった場所にあってくれるからこそ、そこを目指して歩くことができる。そもそも目的地がある、という制約があるからこそ、動き始められることも多い。
今は移動手段が限られているから無理だけれど、もちろんいつかは宇宙空間が、地面の上だけではなくてどこにでも移動できる世界になるのだろう。宇宙旅行が当たり前になった時代、宇宙のここに帰る場所があるのだと思えることは、出発点に強い制約を課されたような感じかもしれないけれど、安心を感じられる大切な事実になるのだろう。
ほかにもたとえば、数学においても制約は大切な役割を果たしている。
数がある。たくさん集まる。それが集合。
でも、数の集合だけでは何も面白くない。そこに、演算、という決まりごとを入れる。すると、要素同士を行き来できるようになる。
足し算、引き算などの決まりごとが追加されたからこそ広がる、豊かな世界。
さらに、要素同士の関係性、距離とか位相と呼ばれるものを導入すると、お互いを比較できるようになる。
比較する尺度には色々とあって、そのなかの一つを選んで、決まりごとを決める。それも他の可能性を消してしまうという意味で制約だけれど、それによってまた奥行きのある深い世界が広がる。
そもそも、方程式の数が足りなければ答えはもとまらない。不定、である。
そこでスパース推定と呼ばれる考え方を導入する。制約をつける。
本質的な部分はもっと小さいですよ、という制約。
そうすると、方程式の数が足りなくても、データの数が足りなくても、この制約条件があるからこそ、この制約のなかに収まる答えを見つけることができる。
不自由であるからこそ、得られる答え。
ブラックホールを直接観測したというニュースがあったけれど、その観測にこのスパース推定という考え方も活かされている。とても大変な観測で、データも少なく、ほとんど手がかりがない状態だからこそ、こういう制約で探す、と世界を狭めることによって、意義深い結果を得られる。
数学。あまりに自由すぎると、前提がなさすぎるとつまらない世界。
色々と制約や条件をつけすぎると、これもつまらない世界。
ちょうどいい世界が、ちょうどいい。
そんな当たり前の世界を探すのが難しいからこそ、まだまだたくさんの研究がおこなわれて、また新しい世界が試みられては、消えていく。
すごく成功した世界が、虚数の世界、複素数の世界。
数の考え方を、現実には存在しない複素数、まさに「虚」の「数」にまで広げたことで、豊かな世界が広がっていく。
もっと不可思議な世界へと拡張することもできて、たとえば複素数をさらに拡張した四元数の世界もあるけれど、ここが豊かかどうかはなんとも言えない。少なくとも複素数ほどは使われていない。ミクロな世界の分子がわさわさと動く様子を再現できる分子動力学計算と呼ばれる計算や、画像処理の一部では使われるけれど、やはり複素数の幅広さにはかなわない。
アイ(i)同士を掛け算するとマイナス1が出てくるなんて、ものすごい決まりごとだし、制約だけれど、それがあるからこその虚数の世界。
権利があって自由がある、と言われる場合もあるけれど、自由を感じるためには不自由が必要なのだと思う。不自由だからこそ、その居辛さからふと解放された時に、あ、今、自分は自由なんだ、と感じられる。
何かを知るためにはその外側が必要、なのかもしれない。
そもそも何かを定義するとき、いくつかの方法がある。
内包的定義とは共通する性質をそのものずばりと指摘する定義。スポーツとは決まりごとに従いながら肉体を動かすこと。最近では頭を動かすこともスポーツに入っているようだけれど、脳も肉体と言えば、まあその通り。そのように、こういう特徴がある、ということを述べる定義の方法もある。
一方、外延的定義とは具体的な例を列挙しながら定義する方法。野球、サッカー、……などがスポーツ、という定義の仕方。具体例があるからわかりやすいかもしれないけれど、では本質はなにか、と問われると、自分の頭を動かす必要がある。
これらはどちらも「これは何々である」と定義して、形を作る。
さて、ではここで「穴」を定義してみよう。
穴。ぽっかりと空いた、穴。
果たして、穴は存在するのだろうか。穴を作り出すことはできるのだろうか。
周りに地面がある。地面がなくなった空間が、穴。地面ではないところが、穴。
哲学や論理学にはあまり詳しくないので、正しい議論かどうかわからないけれど、穴を定義する方法は内包的定義であるように見えて、そもそも周りを、外堀を埋めて定義をしているような印象がある。「これは何々ではない」という形で、定義の穴のようなものを作ることで、穴を形作っているように思える。
周りが地面で満たされているという制約があるからこそ、穴という概念が生まれる。概念を生み出す、自由が生まれる。
穴といえば、物理にも似た状況がある。
現代は電気なしでは生きられないけれど、その電気の本質は何かと言えば、電子が動くこと、である。電子が動いて電気が流れる、というのはわかりやすい。
さて、電流と電子は同じではない。
たしか、小学校か中学校あたりでは、電流はプラスからマイナスに流れると習ったと思うのだけれど、実際には電子の流れが電気のもとだから、マイナスからプラスへと電子が流れている。少し、ややこしい。
また電子に関連して、少し別の現象も知られている。現代の計算機などに欠かせない半導体。その説明のなかには正孔という概念が出てくる。そこらじゅう、電子で埋まっている。
そのなかに空いた、穴。
穴があるから、電子が移動できる。空いた穴に向かって、電子が、左へ、するする、と。
視点を変えると、この電子の移動は、あたかもその穴が右に動いたかのよう、でもある。
電子が動いているはずなのに、穴が動いていく。
ざっくりと言えば、部屋の中に人が密集していて、一人か二人分の隙間が空いている。そこに別の人が移動すると、移動した人がもともといた場所が空く。するとまた別の人が移動できる。これを上から眺めてみると、人が動いているのではなくて、空白が動いていっているように見える。そんな現象が実際に生じる。
穴、すなわち正孔とは電子の欠如。だから存在しない、と言えるけれども、この正孔が動くように見えて、正の電荷、つまりマイナスの電子ではなくてプラスの何かが穴に沿って動いているように見える。
周りを形作ること。電子で埋めることで、穴の移動が生まれる。穴が主役になる。
電子が密集している。そのどうしようもない不自由さが、正孔を形作り、あたかも正孔が動いているかのような自由さを生み出す。
閑話休題。
穴ではなく、決まりごとの話だった。
仕事でもなんでも、好きなようにしていいよ、と言われると身動きできなかったりする。何をしたらいいのかわからない。好きなことをすればいいじゃん、と言われるよりも、まずはこれをやって、と指示されたほうが動きやすい場合もある。動いているなかで、何か新しいことが見つかることはよくある。
予算の制限があったり、困難の多そうなプロジェクトの方がやる気が出たりもする。または、鉛筆だけを使って表現せよ、と言われて書いた絵のほうが、下手に水彩絵の具を使って鮮やかに仕立て上げるよりも、心に届いたりもする。それは、鉛筆しか使えないのであれば、色を使わずにどうやって相手に伝わる絵にするかを考えるからだろう。与えられた制約の中でできる表現を考えたほうが、何も考えずにただ描くよりも深みが出る。
古来からの戦争で、英雄譚として謳われるのは、大人数の敵に少人数で打ち勝つような物語。もちろん戦争の基本は補給や兵站も含めた準備であって、大人数を揃え、機会を窺って、というのが戦略の基本。でも、人も少ない、状況も悪い、そんな制約のなかだからこそ、知恵を絞って、相手に打ち勝つ奇策を考え、困難のなか実行する姿が格好良く見える。
世の中の決まりごとや制約、制限。人の世は、とにかく決まりごとに溢れている。
誰かが作った決まりごとのなかで行動するためには、その決まりごとについてきちんと知っておく必要がある。
初めて使う製品の場合には、きちんと説明書を読む。それが大切。どんなに天才的な人間だって、説明書を読まないと困る場合も多い。
どれだけ数学に詳しくても、どれだけ物理学に詳しくても、録画された映像活劇を記録円盤に書き込む方法を知っているわけではない。製造会社によっても操作方法が違う。ややこしい。最近は説明書を読まずに、直感的に操作できる仕組み、いわゆるユーザ・インターフェースに工夫を凝らした製品が増えているけれども、やはり人の作ったものだから、時々、仕様変更で操作方法が変わったりすると、混乱する。
最近の人工知能や機械学習系の研究・開発ではPythonと呼ばれるプログラミング言語がよく使われるのだけれど、なぜかと言えば、世界の誰かが作ってくれた道具がすでに揃っていて、それらを使うと簡単にプログラムを書くことができるから。でも、どのようなプログラムを書いてその道具を呼び出すのかなどは、どれほど天才でもわからない。だって、その呼び出すための道具の名前の付け方なんて、他の人が知っているわけはないから。その道具を作った人が名付けるのだから、それは説明書や仕様書を読まないとわかりようがない。
人の造りしモノ。
今の計算機を使うためには、その使い方の説明書を読まないといけない。どのような回路で構成されているのか、どのようなコードで動いているのか。人の造りしモノだから、どこかに穴ができてしまって、悪意のあるひとがそこを悪用するのがセキュリティの問題につながる。
今の計算機の世界は誰かが作ったシステムだから、そのシステムをどれだけ詳しく知っているのかが重要。
自然法則に詳しくても、どうしようもない。人による、人の、人のためのシステム。
一方で、では数学や物理法則はどうだろうか。
自然を対象にすること。自然を記述している数式や原理を調べること。
これは誰か他の人が作ったものではない。人間が生まれるずっと前から、この世の中を統べる決まりごと。
誰かの手のひらではなく、公正な遊戯のように感じる、かもしれない。
でも、説明書がない。だから、そもそも何をできるのかが、わからない。
とても大きな制約があるはずなのに、どんな制約なのかがわからない。まずはそこを調べるところから始める必要があった。
そこで、まずは不思議なことを魔術などとして捉えて、そのあと、科学として捉えるようになった。
だから、この世の理、物理法則を調べることは、遊戯の決まりごとを調べることなのかもしれない。
どんな行動が可能なのか。こう行動したら、どんなことが起こるのか。実際に試しながら、理解する。そんな、遊戯の決まりごとを探るという行為も面白いもので、多くの科学者が熱中してきた。
でも、遊戯の決まりごとを逸脱できそうなところが面白い。境界が面白い。
ちょっとした裏技だったり、格闘遊戯におけるハメ技みたいなものは、開発者が意図しない部分、穴を使ったもの。
理学は違うかもしれないけれど、工学の分野でおこなわれていることは、そんな決まりごとを破れるかも、という試みなのかもしれない。
一昔前は、物理法則がよくわかっていなかった。もちろん今でも、まだ決まりごとのすべてがわかったわけではない。でも人類は、もう一歩先、自然を制御するところまで進もうとしている。
現時点での限界を超えようとするときには、今の決まりごとを知っておきたい。果たして本当に超えられるのかどうか。
仕様書に「無理」と書かれていたらできない。ずっと動き続けられる、永久機関を作ることができないことは、熱力学の法則が教えてくれる。無理、ということを保証してくれる。つまり、仕様書に「できません」と書いてあったということ。
でも、仕様書に「保証対象外」と書かれている操作なら、試してみたくなるのかもしれない。それがいいことか、悪いことかは別として。
もう少し世界の仕組みを、決まりごとを理解できていたならば、保証されたなかでもう少しの幸せのための技術を探そうな気がする。世界に対する理解が、保証対象外の領域に迫るくらいにまで進んでしまっている現代だからこそ、もしかしたら神様が書いたのかもしれない、この世界の、仕様書が欲しい。