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その 8 | 2019.12.31なんでもないようなことが、解く謎だったと思う『空飛ぶ馬』北村薫、創元推理文庫 (1994)
『シャーロック・ホームズの冒険』コナン・ドイル(延原謙 訳)、新潮文庫 (1953)
師走は、寒い。
もちろん、睦月以降にさらに厳しい季節が控えているのだけれど、秋から冬へと変わる機会だからなのか、寒くなったなあ、と感じることが多い。
その冷たい空気が、朝、職場へと歩みを進める自分の顔や手を容赦なく攻撃してきて、辛い。
一方で、師走は心が温まることが多い季節でもある。クリスマスもある。年末年始の行事もある。日常のなかに、非日常が紛れ込むことの多い季節である。
街に流れるクリスマスソングを知らないうちに口ずさんでいたことに、気恥ずかさを感じるときもある。けれど、子供の頃、プレゼントを待ちわびていた気持ちを思い起こすと、少しほっこりとする。街の雰囲気が少し明るく楽しげで、そういう空気の中に何を買うでもなく何をするでもなく単に身を置くのも、生産的ではないかもしれないけれど、ときどきはいいことだと思う。
一年を振り返って、いいこと、悪いこと、いろいろなことを思い起こしつつ、悪くはなかった一年だったなあ、という感じる人がいる。来年はこんな新しいことに挑戦してみたいな、と心踊る人もいる。反省点ばかりで気が落ち込むこともあるかもしれないけれど、それでも全ての人に、平等に、新年がやってくる。その機会で心機一転、こんなことをやってみたくて、と他人に説明することも、普通なら少し恥ずかしいかもしれないけれど、まあ、ね、新年だからね、と言うと許される気がしてしまうのは、私だけだろうか。
もちろん、忘年会に新年会と、年末年始はおおっぴらにお酒を飲んで楽しめることが素敵だ、という人もいるだろう。私は下戸だけれど、皆が楽しい雰囲気というのはやっぱり素敵だな、と感じる。
さて、皆で楽しむ雰囲気の年末年始もよいとは思う。でも、例えば柔らかな雪がしんしんと降る窓の内側で、その雪が作り出す静寂に囲まれて、どこか厳かながら雰囲気のなか、独り、読書を楽しむ光景もまた、想像するだけでも心が温まる。
それが炬燵のなかなら、素敵だ。
さらに炬燵の上には蜜柑、脇には飼い猫、そして手には一年間の読み残し、積読してあった文庫本。……なんて素敵なのだろう。実際には猫を飼ってはいないので想像でしかないけれども、考えただけで暖かい。
その文章に少し触れるだけでも、ほっこりとする、穏やかな気持ちになれる作品がある。自分が小説をきちんと読み始めた頃の原点とも言えるような作品で、それは北村薫の『空飛ぶ馬』。
冬の季節に始まり、そして冬に終わるこの連作短編集は、途中、人間の心の暗い部分も描きつつ、最後は心温まる話で幕を閉じる。
北村薫のこの作品から始まる、東京創元社を中心に始まった推理小説の形に、いわゆる「日常の謎」というものがある。
推理小説と言えばどんな印象か、と問われれば、人が殺されて、名探偵が解決する、と答えてしまいがちかもしれない。
けれど、「日常の謎」と呼ばれる作品群では、基本的に人は死なない。日常生活のなかで、あれ、これはちょっと不思議だ、これはなんなのだろう、気になる、というふとした出来事に、鮮やかな理屈をつけて、なるほど、と納得する。
例えば北村薫の作品であれば、ワトソン役の女子大学生である「私」が、指導教員の見る夢の話や、近所の幼稚園から突如消えてまた現れた木馬の話など、人によっては些細なことだからと気にも留めないような出来事に出会う。ちょっと立ち止まってみると不思議に思えるこれらの謎たちに、大学の先輩である落語家の春桜亭円紫が鮮やかにつける謎解きの解説。人の心の優しさを感じられ、そして信じられる小品の連なりは本当に、その文体から滲み出る雰囲気まるごと全て好きで、作品に出会った高校時代以降の自分を形作っているもののひとつと言える。
そういえば、落語というのも、ちょっとした日常からのずれのようなものを使って可笑しさを出すものかもしれない。饅頭怖い、という台詞の裏側に隠された意味に気がついた時の、うまいっ、と膝を叩くような爽快感が楽しさの源泉だろう。北村薫のこの『円紫師匠と私』シリーズで、ずいぶんと落語への親しみも増したものだった。
もともと覆面作家として小説の舞台に現れた北村薫は、その作品の主人公のような女性的な印象を持たれていたようだったけれど、実は埼玉県で高校の国語の先生をしていた優しい笑顔のおじさんである。その人間の眺める眼差しは優しく、しかし時に厳しい。さらに古典までを含んだ博覧強記とも言える書籍に関する知識をもとにアンソロジストとしての顔ももっている。なんでもない日常からよくもこれほどの謎を見つけて、しかも人間の生き様に絡めて物語に仕立て上げられるものだなあ、いよっ、名人っ、と落語の掛け声のように言いたくなる。
北村薫に続けとばかりに、その後、高校を舞台に、書店を題材に、などなど、日常の謎の作品がたくさん出版されることとなった。殺伐としていない、素敵な年末年始を過ごすには、こういった作品群も欠かせない。
もちろん北村薫の以前に、人の死なない推理小説がなかったわけではない。実は、たくさんある。
おそらく世界でもっとも有名な探偵であろうシャーロック・ホームズの扱う事件には、人の死なないものも多い。さらに言えば、助手のワトソンなら見過ごしてしまいそうな、そんなふとした謎を扱った作品もたくさんある。
短編集『シャーロック・ホームズの冒険』所収の短編、『ボヘミアの醜聞』でのホームズの台詞に有名なものがある。
ホームズから、日常的に階段の段数を問われたワトソンは、その段数を答えられない。ホームズ曰く、それはなぜならば、見ているけれど観察していないからだ、とのこと。
なるほど、と思う。漠然と見ているだけでは駄目なのだと。とは言え、日常のあらゆることに注意を行き届かせて観察をするというのはなかなか難しい。
言うは易し、行うは難し。
なお、この『ボヘミアの醜聞』もまた人の死なない話であり、さらに、かの有名なアイリーン・アドラー嬢の出てくる小品でもある。
さて。
ホームズの言うように、見ているだけでは駄目なことは多い。観察することこそが、日常的に見過ごしてしまいそうなことに注意を向け、謎を見出し、それを解決するための糸口になる、というのは真実なのだと思う。たとえ、常にそれを心がけるのはとても難しいことだとしても。
それは日常のことだけではなくて、科学においても言える。何かを観察するためにはそれ相応の準備が必要になる。
身近なところで言えば、何かしらの温度計がないと、きちんとした温度を測ることはできない。乾燥が厳しい冬の季節には湿度も測りたいので、湿度計が欲しい。これらを測るためには、たとえば温度や湿度に応じて長さが変わったり、曲がったりする物質を使う。物質を、適切な形で用いることで可能になる。それが測定のひとつの形。
もっと大きなスケールでは、スーパーカミオカンデのようなニュートリノの計測装置もある。純粋な水で満たされた巨大な水槽の周りを囲む、たくさんの光電子増倍管が、わずかな光の発生を検出する。これは非常に繊細な測定を必要とする。
さらにこまやかな測定が必要となるのは重力波の検出。アインシュタインによってその存在が予測されていつつも、本当にあるのかどうかわからなかった重力波。その存在を確認したのは、本当に微小な光の波のずれを利用した方法で、その成果がノーベル物理学賞に輝いた知らせは記憶に新しい。
自然の中にはさまざまな情報が埋まっている。けれど、赤外線や紫外線など、人間には感じることのできない領域のものも多い。さらに、雑音とした考えられないような小さな微妙な信号のなかから、いろいろなものを削り取って、削って、削って、そしてようやく見えてくる小さな信号もある。
その存在すら不確かな、そんな小さな声を拾い上げる行為は、科学だけではなくて、民主主義も含めた社会、人間にとって大切なものだと思う……と拡大解釈をしたくもなってしまう。それはさておき、すぐに役に立つのかはわからないけれども、見えないものを見ようとするその行為の尊さ、科学の素晴らしさを、いつまでも信じて、感動できるとよいな、と思う。
情報というと、たくさんあったほうが素晴らしい、と思うかもしれないけれど、必ずしもたくさんの情報があることが豊富なわけではない。何らかの数値のデータをもっているだけでは情報とは言えない。データは、そのままだと情報ではないのだから。
解釈をする、何かのために利用をする。その働きかけで、初めてデータが意味を持ち、情報になる。
情報処理とは、極論を言えば数値を何らかの形に変えていく一連の流れのことを意味する。平均を計算する。平均からのずれ、つまり分散や標準偏差を計算する。度数分布を作る。目に見える形に整理する。
確率の議論に基づいて『情報量』というものを数学的に定式化することができるのだけれど、それは「起こりづらい現象ほど、得られる情報量が大きい」という考え方に基づいている。皆が知っているようなことを知っても、あまり価値がない。予測しやすいものは情報量が少ない。
硬貨を投げた時にその裏表を当てるよりも、さいころを振った時にどの目が出るのかを当てるほうが難しい。だから、平均的な情報量、エントロピーと呼ばれる量は、さいころのほうが大きくなる。
たいていのばあい、なんらかの処理をすると曖昧さは減る。不確実性は減る。
さいころを振った生の数値をそのまま利用するのではなくて、偶数の目と奇数の目に着目することを考えてみる。偶数なのか、奇数なのか。すると、六つの目のなかで偶数の目は三個、奇数の目は三個だから二択の問題になって、実は硬貨と同じ不確実さになる。情報量も一緒。
六つの数字を二択にする。取捨選択をする。粗く、見る。
そういった解釈を変える、という行為も情報処理のひとつで、それによって六つあった選択肢が二つに減るため、不確実さが減る。
もちろん、処理をする前、解釈を変える前のほうが、ある意味では「豊富」だと言える。選択肢は多い方が、いい。
でも、生徒ごとの試験結果の生の数値の羅列を見せられるよりも、平均値を見せてもらったほうが、年ごとの変化を見やすくなったりもする。ものすごくたくさんの生徒のそれぞれ点数がどうなるか、という選択肢を使うのではなくて、さいころを硬貨だとみなしたように、平均的にどのような点数になるのか、という形で選択肢を減らしてしまってはいるけれど、実はこれでわかりやすくなっている。
複雑な世の中を、複雑なまま捉える必要なんてなくて、本質的な部分だけを抜き出せば十分、という場合も多い。それは、人間がとてもたくさんの数値を扱うことに不慣れなだけかもしれないけれど、人間というのはそうやって生きてきたのだから、仕方がない。
情報はたくさんあったほうがよさそうに見えつつ、あえて情報を「削る」ことでわかりやすくなる、というちょっとした不可思議。
情報理論のなかに「データ処理不等式」という数式があって、これはその名の通り、データを処理するときに「等式」ではなく「不等式」が出てくるということ。これまで書いたように、実は処理をすればするほど、情報量は減っていく。つまり、いろいろと削っていく。
素朴には、処理しすぎるとよくない、処理によって本当に送りたかった数値や信号が曖昧になってしまう、と考えてしまう。けれど、人間が理解するうえでは、平均とか分散とか、そういった、ぐいっと本質をつかむような飛躍が大切だったりする。
減らすほど、豊かになる。
もちろん情報処理とデータ処理不等式の話は、断捨離とは違うけれども、なんだか、生き方とか、思想のようにも感じられて、面白い。
生の数値は、情報としては豊富でも、人間にはわかりづらい。平均や分散、度数分布などを作って数値を人間が把握するためのさまざまな道具が、記述統計と呼ばれる分野で作られている。統計、と言っても難しいことでは全くなくて、まさに、平均やそこからのずれを見るところから始まる。
もう少し人間にわかりやすく、優しく、ということなら、可視化をするという方法もある。とても複雑なものを、わかりやすく、二次元で、三次元で。
数値実験は、それこそ数百万次元など、つまりとてもたくさんのものの動きを追うことが必要になることも多いのだけれど、人間の目に見えるのは二次元や三次元、また時間方向を変えて見られるという意味での四次元くらいだから、本質的なところ、知りたいところだけを切り取って表示する必要がある。
そのまま二次元や三次元に数値をもっていくと、ぐちゃ、っとして、なにがなんだかわからない。それを、できるだけ見やすくするための研究などもたくさんおこなわれている。
それはものすごい抽象化で、荒技。
けれど、それで見やすくなる。理解しやすくなる。
理解するのは人間だから、さらに、人間の知覚がどうなっているかなど、認知科学や心理学にまで踏み込んだ方法も必要になる。
そう考えてみると、もしかしたら機械であれば、計算機であれば、生の数値そのものを見ることができて、人間のように粗く見る、なんてことが必要ないのかもしれない、などと空想してみたりもする。
計算機がものすごく人間のために頑張ってくれていることのひとつが、検索、だろう。
検索の場合には情報を削るということとは少し違って、新しい価値を付加しているように感じられる。
グーグルに検索語を入れると、すごく関係していそうかな、重要そうかな、と思えるウェブサイトから順番に表示される。それぞれのウェブサイトに価値をつけて、利用者の視点に立って有用そうなものから提示してくれる。順序づけは付加価値、である。
けれど、実は検索をするためには何らかの評価基準が必要になる。何が利用者にとって役に立ちそうなのか、その基準がないと順番をつけられない。その評価基準は、誰かによって決められたものであって、他の評価基準もありえたかもしれないのに、何かひとつだけを選び出している時点で、「削る」行為が発生しているとも言える。
やっぱり、人間に優しく、を考えると、すべてをそのままではなくて、何かしらの処理をして「削る」ことが必要なのかもしれない。
さらに人間に関わる話として、心理学や社会学ついての、こんな実験結果を聞いたことがある。
たとえばジャムを買うとして、お店にたくさんの種類のジャムが並んでいる場合と、少数の厳選されたジャムが並んでいた場合とでは、後者の選択肢が少ない場合のほうが実際にジャムを買って帰る人が多い、らしい。
つまり、選択肢が多すぎると迷ってしまうからか、購入意欲が減ってしまう、らしい。
もちろん商品や状況などにも依る話なので、単純な結論にすぐに飛びつくわけにはいかないけれど、たしかにそういうこともありそう、と頷ける実験結果でもある。
選ぶ、ということは難しい。疲れる。
好きな会社の商品ばかりを買ってしまうのは、好きだから、格好いいから、という理由もあるだろうけれども、選ぶという心理的負担を減らしてくれる効果もあるから、らしい。
毎日の洋服を選ぶことも大変で、学校の制服なら何も考えなくていいから楽だった、という感想を聞いたこともある。アップル創業者スティーブ・ジョブズが基本的にデニムに黒のタートルネックという出で立ちだったのも、フェイスブック創業者マーク・ザッカーバーグがグレーのTシャツという姿をしていることが多かったのも、本当に自分の集中すべきことをするために日々のちょっとした決断を避けたことから、という話もある。
もちろん、どのような基準でその服装を選ぶのか、というところには、その人の生きる思想、基準が反映されるし、さまざまな可能性があったはずのなかで、自分が選んだその世界のなかで生きることにした、という意味では、さきほどの「削る」ことの話に通じるものがある。
けれど、そんな話の前に、本質的なところに自分の人生を集中させたいという思いから着る洋服を決めてしまうなんて、すごいなあ、と素直に感心してしまう。日常生活の、洋服を選ぶというちょっとしたことに目を向けること。気が付いて、そして思ったことを実行してしまう、その力。
なんでもないようなことに、疑問をもつことの大切さ。
なぜ自分は今、この少ない選択肢から選ぶべきなのか。
デザインと聞くと、物を飾り立てること、と思われることも多いけれど、実はデザインとは装飾ではなくて削ること、だと言われる。
本当に必要なものを、本質を見定めて、使いやすさも含めて設計をすること。
その形をわかりやすく提示してくれたのがアップルの各種製品だろう。日本の白物家電はボタンが多すぎてわかりづらい点はデザインを意識していないから、とも言われる。
形ではなく、その機能までも含めて、もちろん使いたいと思わせる心理的な面も合わせて、デザイン。
そういった素敵なデザインを作り出すためには、やはり考えなしであれこれと追加するのではなくて、ちょっとした、なにげないことに気が付く観察力が必要になるし、突き詰めて考える姿勢が大切になる。たくさんありすぎるとわかりづらい、という人間の宿命をも考慮する必要がある。
多すぎると、気がつかない。
何気なく、通り過ぎてしまう。
たとえば、夜空を見上げて、夏と比べて冬のほうが星が綺麗に見えると感じること。
冬のほうが上空に水蒸気が少ないからだとか、日照時間が短いからだとか、いろいろな理由をつけることは、もちろんできる。でも、まずは、冬の澄んだ空だからこそ見える星々があるのではないか、と何となく思って見上げて、足を止めて、観察してみるというその一歩が必要だろう。
転ばないように、足元を見ながら歩みを進めること。それでもときどき、立ち止まって、都会の淡く白んでしまっている夜空に星の光を見出そうとすること。
なんでもないようなことに、気がつくこと。
今日の朝、自分の吐く息の白さに気が付いただろうか、と思い起こしてみて、覚えてないことに少し余裕を失っているかもしれない、と感じること。
ホームズに指摘されたワトソンのように、普段、自分が使っている階段の段数を気にすることはないだろう。階段は昇るものであって、段数を数えるものではない。
でも、子供の頃にホームズの台詞を読んだとき、しばらくの間、自宅や学校の階段の段数を数えてしまっていた。一度習慣ができると、それなりにそれを続けてしまうものだ。
習慣や癖を変えるのは難しい。
日常の中で、なぜ自分はこんな行動をとってしまったのだろう、と思うことがある。そう思ったときに、自分の心の奥を覗いて、その行動の意味を探ることもある。
自分のことだけではなくて、なぜこの人はこのような行動をとったのか、というところまで考えが及べば、それが日常の謎の始まりなのかもしれない。
もちろん、自分のことであれば、答えが見つかる可能性は高い。
けれど、他人のこととなると、その心の内側は窺い知ることしかできないから、答えが見えないかもしれない。
名探偵気取りで、あなたがこの行動をとった理由はこれこれですね、なんて確認するわけにもいかないし、その理由を推測して行動してみたら、余計なお世話だった、ということもある。
日常の謎の回答は、日常に埋もれたまま、がよいのかもしれない。
殺人事件は解決すべきだけれど、日常の謎であれば、自分が納得できる理由を見つけられれば心の奥底にその回答を収めておくべきかもしれない。
どうか、世の中に名探偵というか迷探偵が多すぎる漫画のような展開を避けられますように。